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【10月24日】戦艦「武蔵」の最後



Japanese_battleship_Musashi_cropped.jpg
戦艦「武蔵」(Wikipedia)
 本日10月24日は、第二次世界大戦の日本帝国海軍の戦艦「武蔵」が沈没した日です(1944年)。
 武蔵は大和型戦艦の二番艦で、戦艦「大和」ほどの知名度はないかと思いますが、二番艦ということで大和よりもかなりの改良を施されていました。

 戦艦としては世界最大級でしたが当時の情勢は空母による航空兵力の大量投入。「大艦巨砲主義」はすでに時代遅れになっていました(三番艦になる予定の「
信濃
」は空母に改装)。
 それでも出来上がった大和、武蔵を惜しげも無く、地上要塞への砲撃などや最前線に投入すれば、後世の批判はまだ免れたのでしょうが、大事に扱うあまり、重要な局面での投入ができませんでした。
 味方からも「大和ホテル」「武蔵旅館」と揶揄される始末です。

800px-Musashi1944.png そして、その両艦の誇る46cm砲の戦果は・・・・なんとゼロです。
元同型艦の信濃も4年もかかって建造して一発も撃たず、一機も発艦しないまま魚雷で撃沈って・・・。

 結局、有効な投入ができず、「武蔵」はレイテ決戦の囮として沈没。「大和」は沖縄へ片で戦艦特攻出撃することになります。

 武蔵の役割は「
レイテ沖海戦」を成功させるために敵を引き付けるいわば、「被害担当艦」の役割を果したことになります。

 1944年10月24日。計六回の米軍の空襲を受け、軍艦史上最多・空前絶後の損害、命中魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発以上を受けついに沈没します。
 沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水ですが、左右に均等に魚雷を受たことが幸いし、傾斜復旧のための注水作業によって転覆をくい止め続けることができました。

 沈没により、約1350名が救助されましたが、救助した艦船も撃沈されたりして、日本に戻ってこれた将兵はわずかでありました。

 武蔵は現在は大勢の乗務員と共にフィリピンの海底深くに沈んでいます。沈没地点は2つが伝えられています。一つは猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載したもので、戦闘詳報に採用されている東経122度32分、北緯13度7分。沈没地点が深海800m。
 そしてもうひとつは駆逐艦「清霜」の記録による東経122度41.5分、北緯12度48分。しかし計器の故障のため不正確だそうで、いずれも現在の調査でも発見はされておりません。今も多くの将兵たちとともに鎮魂の墓標となっているのでしょう。

 悲運の戦艦として語り継がれる「武蔵」ですが、言えることは、今後もこのような巨大戦艦は造られることはないであろうということでしょうか。

「武蔵」沈没推定地域

大きな地図で見る

<追記>
 2015年の3月4日の報道で、
太平洋戦争中に撃沈された戦艦「武蔵」とみられる廃船が、フィリピン沖の深海で見つかりました。
 発見したのは、米マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレン氏です。
その後の調査では、この艦船は「武蔵」と判明。戦後70年という節目の年に見つかったこともあって、注目されています。すごいことですね。




 
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【10月21日】神風特別攻撃隊の初出撃。




Chiran_high_school_girls_wave_kamikaze_pilot.jpg
1945年4月12日、知覧陸軍飛行場より出撃する陸軍特別攻撃隊

 本日10月21日は、第二次世界大戦で日本の神風特別攻撃隊が初出撃した日です。1944年のことでした。特攻部隊でも一番有名な攻撃隊で「カミカゼ」という言葉自体が特攻全体を象徴する名となっています。

 創設者は大西瀧治郎海軍中将ですが、以前より特攻(自爆攻撃)自体はありました。
戦局の悪化に伴い、特攻を求める意見が多数寄せられていたことから、大西中将は、ついに決断に入ります。

 操縦士を育てるには何百時間もの大量の訓練時間が必要です。特に日本の戦闘機は格闘戦を重視したものが多く、高度な操縦技術が必要です。しかし、若いパイロットをそこまで育て上げる余裕はありません。

 訓練時間の足りない未熟なパイロットの腕では「体当たり攻撃以外、空母への有効な攻撃は無い。無駄死させるよりも有効的な攻撃方法である」とされたのです。

 さらには当時の戦局は日本にはかなり悪く、何よりも油があと半年で尽きると言われていました。燃料がないと戦争が継続できません。特攻は、乾坤一擲の策として打撃を与え、一気に講和に結びる打開策として生まれたという説もあります。

 1944年10月21日についに神風特別攻撃隊、21機が出撃します。初戦果は、25日。空母「セント・ロー」を撃沈します。以後、特攻は拡大し、最後は操縦できるパイロットは全て特攻に駆り出されるようになります。しかし、特攻の要請を拒否した部隊も存在し、身体を張ってまで特攻を阻止した上官たちも存在します。
 終戦まで、1万4千名あまりもの兵士たちが特攻隊員として亡くなりました。

Kamikaze_zero.jpg
1945年4月11日、戦艦「ミズーリ」に突入直前の神風特別攻撃隊

特攻隊を送り出した将校たちのその後


●神風特別攻撃隊の創設者かつ指揮者。
大西瀧治郎中将→終戦翌日に割腹自決。

●全員特攻の決意を徹底させた 第五航空艦隊長官。
宇垣纏中将→終戦の玉音放送の後に特攻。戦死。

●特攻戦術の発案者。軍令部部長として積極的に特攻兵器採用・開発を主導した。→
黒島亀人少将→生存。

●特攻兵器「桜花」の発案者 
太田正一大尉→終戦後、零戦に乗って行方不明となる。殉職扱いされるが生存が確認。戸籍を直して別人として生き延びる。

●陸軍初の航空特別攻撃隊、万朶隊の出撃命令を出す。
富永恭次中将→特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言いつつ戦後ちゃっかり生き残る。長男は特攻戦死。マニラからの敵前逃亡あり。

●機体故障でやむを得ず引き返した特攻隊員を隔離し、「おめおめ帰ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリンチしたことで知られる第6航空軍参謀
倉澤清忠少佐→戦後、特攻隊員の遺族たちに恨まれているだろうと恐れ、80歳になるまで護身用に拳銃と軍刀を隠し持っていたという臆病者。

 多くの若者たちを死に追いやったお偉さんたちは
 戦後は「復興が重要だ」と約束を忘れたふりをして、戦後も生き延びています。

 行かせざる負えない戦況であったのは理解できますが、自分も特攻すると言って行かないのは、人間としてどうなのでしょうか。出来もしないことを言うなです。
有言実行したのは大西中将と宇垣中将などわずかであったことに愕然とします。

 特攻には賛否両論あります。自分を死してまで家族を守ろうとする自己犠牲精神は人間としては最高の精神だと思います。しかしその精神を利用していた者がいるのは許せない気がします。

 大ヒットした映画「永遠の0(ゼロ)」ですが、「風立ちぬ」の監督である宮崎駿が猛烈批判した映画でした。
 両者の映画を見くらべることによって「戦争と平和」について考えてみたいところです。




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【9月12日】グラン・サッソ襲撃!ムッソリーニの劇的救出作戦



800px-Campo_Imperatore_Hotel.jpg
ムッソリーニが幽閉されたホテル「カンポ・インペラトーレ」(Wikipedia)

 本日は第二次大戦下のナチス・ドイツで行われた有名な作戦の日です。(1943年9月12日)

その名もグラン・サッソ襲撃作戦。ドイツ軍における作戦名は、「ウンターネーメン・アイヒェ(Unternehmen Eiche、日本語で「柏作戦」の意)」でムッソリーニ救出作戦
として知られています。

 1943年7月25日、イタリア王国の首相であったムッソリーニは、大評議会が首相解任の動議を可決したことにより、首相の座を追われて逮捕されてしまいます。

 これに対するナチス・ドイツの対応は素早く、翌日にはアドルフ・ヒトラーがファシズムの盟友である彼を救出するべく、ドイツ空軍のクルト・シュトゥデントにムッソリーニ救出作戦の立案及び決行を、武装親衛隊の
オットー・スコルツェニーには救出後の保護を指令します。

  ムッソリーニの身柄を拘束したバドリオ政権は、反体制派による奪還を防ぐためにムッソリーニをイタリア各地を頻繁に移動させていましたが、ドイツ側は、最終的にムッソリーニがグラン・サッソのホテル「カンポ・インペラトーレ」に幽閉されていることを突き止めます。

1943年9月12日。作戦は決行されます。この時の作戦は、コマンド部隊をグライダーで下ろし、ホテルを急襲、身柄を確保した後、待機している別の機体でムッソリーニを脱出させるというものでした。
 
 この時使用される予定だった
フォッケ・300px-Fa223_modell.png アハゲリスFa223という航空機は、ドイツが実用化させたヘリコプターでしたが、故障のため、短距離離着陸性能に優れているFi1 56シュトルヒを代用することになります。Fieseler_Fi156.jpg

 
 作戦の実施は、まず、ドイツ軍のコマンド部隊が12機の
DFS230に分乗して降下し、うち8機が着陸に成功します。


Bundesarchiv_Bild_101I-567-1503A-02,_Gran_Sasso,_Lastensegler_DFS_230_C-1

 着陸に失敗したグライダーでは負傷者を出したものの、降下猟兵の一隊がムッソリーニの幽閉されていたホテルへ突入し、一発の銃弾も発砲することなく、幽閉されていたムッソリーニの身柄を無傷で確保します。
 すでにFi156はホテルの前に着陸しており、スコルツェニーはムッソリーニの身柄の引き渡しを受けるとFi156に乗り込み、重量オーバーながらも75m程度の滑走で無事に離陸し、グラン・サッソを脱出します。このFi156は、離陸では向かい風で50m、20mもあれば直陸できるという優れもの。


 この作戦は、困難な条件を克服して実施された要人救出の成功事例として名高いものであり、空から救出部隊を送り込む大胆不敵さと無用な死傷者を出さないスマートさは当時の世界の度肝を抜き、その劇的な経緯から戦後に小説、演劇、映画等の題材にもなりました。
Bundesarchiv_Bild_101I-567-1503C-15,_Gran_Sasso,_Mussolini_vor_Hotel
救出に成功した兵士たちとムッソリーニ(中央の黒い服を着た人物)

本作戦を基に作られたジャック・ヒギンズによる冒険小説は特に有名です。
→「鷲は舞い降りた」

 イタリア王国はこの作戦の直前の9月8日に連合国に早くも降伏してしまっていたので、ナチスはこのムッソリーニを国家元首としたイタリア社会共和国をつくらせ戦争を継続させたことからもこの作戦は非常に重要な意味を持つものとなりました。

Cap 552  なお、この時の武装親衛隊のスコルツェニーですが、ムッソリーニとともにFi156で脱出する部分をドイツ宣伝省によって誇張して大々的に宣伝されたため、連合軍において、「神出鬼没のコマンド部隊指揮官」というイメージが定着します。
 後にパンツァーファウスト作戦並びにグライフ作戦等のコマンド部隊による作戦を指揮したこともあって「ヨーロッパで最も危険な男」と呼ばれるようになりましたが、実際にはこの時のスコルツェニーを始めとする武装親衛隊は救出後のムッソリーニを保護するための随行者という立場であり、作戦を実際に仕切ったのは降下猟兵を所管するドイツ空軍でした。


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