【9月9日】川中島の合戦。武田信玄と上杉謙信。
9月9日は川中島で行われた、武田信玄と上杉謙信の四回目の合戦の日です。二人は互いに性格と戦術を読み切った好敵手同士。戦国時代を代表する武将二人が戦った数ある戦闘の中でも最大の戦い「第四次川中島の戦い」がこの日に行われました。この戦いでは互いに性格と戦術を読み切った互角の戦闘が繰り広げられることになります。(川中島の戦い:1561年9月9日深夜から10日昼にかけての戦い)
上杉謙信が川中島に出現したという知らせを受けた武田信玄は、甲斐の武田館を出軍します。上杉軍は、今までと異なり、得意の電撃戦で川中島の南に流れる千曲川を渡り、妻女山に陣取って、武田軍の海津城と相対しました。
そのため、武田軍は茶臼山に陣取って上杉軍を牽制することになります。
これが、互いに退路を塞ぐ形になり、そのまま睨み合いが続くことになります。武田軍は、この布陣による戦線硬直を避けるため海津城に入城しました。
このとき、妻女山の上杉軍は約1万3千、海津城の武田軍は約2万となり、兵力は武田軍優勢です。(図1)
膠着状態のままでは武士の名折れ。深夜、武田軍は、山本勘助の「啄木鳥の戦法」を採用して本隊約8千を率いて八幡原に、また別働隊約1万2千を妻女山に向かわせ、上杉軍を八幡原に追い出して挟撃しようとします。
しかし、上杉謙信はこの動きを察知します。10日朝の霧が立ち込める中、上杉軍全軍1.3万が妻女山を抜け出し八幡原に突撃しました。
これは空城の計とも言われる戦法であり、武田軍の挟撃部隊1.2万が妻女山に到着したときには上杉軍はもぬけの殻でした。
このため、武田軍は完全に裏をかかれた形になり、誘導部隊の武田軍8千が倍近い上杉軍の攻撃を受け、武田信玄の弟の武田信繁や山本勘助らが討死するなど、不利な形勢に陥ります。
武田軍の主力部隊(挟撃部隊)1.2万は昼前にはようやく八幡原に到着します。予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の誘導部隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となりました。
この戦で、上杉謙信と武田信玄が一騎打ちをしたと言われています。
上杉軍が善光寺に退いたことで戦闘は終わりました。この戦による死者は、上杉軍が3千強、武田軍が4千強であり、互いに多数の死者を出した激戦となりました。
北信濃の武将はほとんどが武田方につき、川中島・善光寺平は実質武田の支配下となりました。
戦の後も北信濃の支配権は武田が握っていたため、戦略的には武田の勝ちともいえますが、武田軍も上杉軍の越後を寸土も領有できませんでした。やはり、同じような力量を持った武将同士の、五分と五分の戦いであったといってよいと思います。
このサイトが凄いです。全ての合戦をアニメーションで詳しく解説されています。
→長野市「信州・風林火山」特設サイト「川中島の戦い」
スポンサーサイト

















