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西洋の近代前の戦争

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【8月2日】殲滅の因果か怨念か。カンネエの戦い。




Cap 372
ローマ軍『執政官パウルスの最期』

 何の因果か、世界には戦争になる地があります。地政学上そうなるのでしょうが、多くの血を求めるような地が現実に存在します。
 イスラエルのように、宗教的聖地で、多くの人々が住んでいる都市などでしたら、権力、利権、富などを巡って争いになるのは分かりますが、人もいない平野であるからこそ、逆に戦場になりやすい地というのも存在するようです。



Cap 373 カンナエの戦い
 は、紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いでです。
 
第二次ポエニ戦争における会戦の一つで、ハンニバル
率いるカルタゴ軍が、2倍以上の軍勢を誇るローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上名高いです。

 そして同じ場所で、ローマ軍とノルマン人の戦いが1234年後に行われます。これも「カンナエの戦い」と言われています(1018年10月1日)。今度は、以前殲滅された側のローマ軍がノルマン人を殲滅するという逆の立場になります。1200年前の教訓を活かしたかたちになったのでしょうか。不思議な因縁を感じますね。

 さて、最初のハンニバル軍とローマ軍の戦いの「カンナエの戦い」ですが、「包囲殲滅戦」の好例として欧米の士官学校では必ず学習するくらい有名な戦いです。簡単に流れを紹介します。

 
Cap 374 【布陣】
 この日ローマ軍は1万の予備軍を後方に置き、7万の歩兵力での伝統的な配置で決戦に挑みます。
 その配置とは、前衛に軽装歩兵を置き、その後ろに重装歩兵部隊の方陣密集隊形、そして左右側面に騎兵という配置です。
 作戦の意図は当時最強を誇るローマ軍団の重装歩兵部隊による中央突破であり、そのため各中隊の幅を狭くして密集体系をとっていました。
 一方、5万の兵力を持つカルタゴ軍の指揮官ハンニバルもローマ軍と同じような布陣でしたが、ガリア人傭兵の歩兵部隊を凸状にふくらんだ三日月形に並べ、その両側に精強なカルタゴ兵を配置。
 左右側面に騎兵が自由に動ける態勢の布陣でした。この隊形の意図は中央で敵主力を拘束している間に両翼を突破し敵全体を包囲するところにあります。


【戦争序盤】

 緒戦でハンニバルのカルタゴ軍は、右翼のローマ騎兵を粉砕することに成功します。(図1)
 一方、ローマ軍は
主力の重装歩兵部隊の単一大方陣を前進させて、凸状のカルタゴ軍を押戻し始めます。
 カルタゴ軍の凸状の陣形が、圧倒的に強力なローマ軍の大方陣によって凹状に変形したのを見て、「敵軍は崩壊寸前である」と考えたローマ軍はさらに前進します。

Cap 375
【包囲完成と殲滅】
 その間にカルタゴ軍右翼の強力な軽騎兵がローマ軍騎兵を攻撃、ローマ軍騎兵は対抗できず敗走し始めます。
 そのころにはカルタゴ軍の陣形はU字形に変形、退却をしつつも、ローマ軍を押さえつけます。(図2)

 ここでハンニバルは、側面で待機させていた精鋭のカルタゴ歩兵に包囲陣内のローマ軍を粉砕するように命令し、退却していた前面の歩兵部隊も反転してローマ軍の前方に立ち塞がります。両翼のカルタゴ騎兵が、ローマ軍の後方に到着して敵軍の退却路を塞ぐと、カルタゴ軍の包囲環は完成(図2)。
 包囲環の中で密集したローマ兵たちは効果的に戦うことが出来ず、周りを囲むカルタゴ軍に一方的に殲滅されていくことになります。

Cap 376 【結果】
 この戦いでカルタゴ軍は6千名余りの戦死者を出しましたが、ほとんどが傭兵であり、かたやローマ軍の被害はその十倍の6万人の戦死者と1万人もの捕虜を出した一方的な戦いになりました。
 ローマ軍の指揮官である
ルキウス・アエミリウス・パウルス
はこの戦いで戦死します。

 この多くの血を吸った地は、その1200年後に再び多くの男たちの血を吸うことになります。それも同じように、一方的な殲滅戦で。敗れたローマ兵士たちの怨念のようです・・・・。
 
 現在のこのカンネの地は、ぶどう畑の平和な景観であり、戦争の痕跡は一部しか残っていません。
 ローマ側の都市の城壁の一部に博物館が建てられており、当時の面影を少しだけ残しています。
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【5月29日①】】コンスタンティノープルの陥落!ローマの終焉



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1453年のこの日、東ローマ帝国の首都、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)が陥落し、東ローマ帝国が滅亡しました。(1453年5月29日)

 395年に東西に分かれたローマ帝国ですが、このコンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都として栄え、新ローマ、第二のローマとしての意識が人々に定着していました。いわばキリスト教文明の象徴ともいえる都市でもありました。

 しかし、西ローマ帝国は、イスラム教国の攻勢で領土を失い続け、なにより、同じキリスト教文明同士との交戦により、荒廃していきます。特に1204年に起きた悪名高い
第4回十字軍の攻撃を受けたことで衰退が加速したと言われています。

 そして、ついに1453年。野望溢れる
メフメト2世率いるオスマン帝国との戦いが始まります。激しい攻防が続き、千年にわたって都を守ってきた鉄壁の城塞都市を崩壊の一歩手前まで追い込みます。
 それでも落ちないコンスタンティノープルでしたが、幕切れは、あっけなく訪れてしまいます。なんと城門の鍵の閉め忘れ。これに気づいたオスマン軍は一気に城内に突入、混乱の最中、皇帝コンスタンティノス11世自身も戦いの中で死んでいったと言われています。
 
西ローマ帝国に遅れること1000年あまり、古代から存続してきたローマ帝国は完全に滅亡しました。
 この事件は、日本では塩野七生の書籍でも描かれていて有名ですよね。『コンスタンティノープルの陥落』『ロードス島攻防記』『レパントの海戦』の三部作は学生時代に読まれた方も多いと思います。キリスト教文明(ヨーロッパ文明)とイスラム文明との衝突にハラハラとページをめくった思い出深い書籍です。



「地中海戦記」三部作! この時代の入門書としては
最適かも(クリックでAmazonへ飛びます)




歴史書としてはこちらもお勧めです。
「コンスタンティノープル陥落す」スティーヴン ランシマン (著)


ギボンの不朽の名著・大著「ローマ帝国衰亡史」の
ダイジェスト版ですが、豊富な図版と写真がすごいです。


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東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

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【10月19日】ハンニバルついに敗れる。ザマの戦い。



Zama.jpg

本日のこの日はザマの戦い」と言ってローマ軍カルタゴ軍の戦いのあった日でした。(紀元前202年10月19日) 

カルタゴとローマ

 カルタゴ
は紀元前6世紀から紀元前3世紀にかけて栄え、海洋商業国家として栄えた国でした。
軍事大国ローマと地中海の覇権を賭け、度重なる戦いの末に完全に滅ぼされてしまった悲劇の国家です。

 両国は三度の戦いを繰り広げます。最初の戦争は、シシリー島での衝突をきっかけにした
第一次ポエニ戦争でした。海軍では強いカルタゴも、総合軍事力ではるかに勝るローマには敵わず、莫大な保証金を払わされます。
 しかしカルタゴは、たちまち見事な経済復興を遂げ、ローマによって科せられた膨大な賠償金を繰上げ償還してしまいます。
 これに警戒感を強めたローマは、再度、戦いに引き込んで叩いてしまおうと様々な政治工作や挑発を繰り返します。
361px-Hannibal_Slodtz_Louvre_MR2093.jpg  カルタゴを最も激怒させたのは、スペインにおいて輝かしい戦果を挙げていたカルタゴの将軍・ハンニバルの引渡しでした。(右図の銅像がハンニバル将軍)
 ここに至って、ついに忍耐の限度に達したカルタゴは、国家の存亡を賭けてハンニバルの引渡しを拒絶し、ローマの宣戦布 告によって
第二次ポエニ戦争が始まります。

 この時、ローマの動員可能兵力は77万、対するカルタゴは8万余。勝敗は明らかでした。
 しかし、カルタゴは、名将 ハンニバルが3万の軍勢を率いてアルプスを越え、背後からローマを衝くという、意表をついた作戦で序盤戦の主導権を握ります。そこからハンニバルの快進撃が始まります。

ティキヌスの戦い
トレビアの戦いトラシメヌス湖畔の戦いと三度ローマ軍を敗退させると、ローマに敵対的だったガリアの部族たちも続々とカルタゴ軍につくようになります。

 圧倒的な勝利を収めたのは
カンナエの戦いでした。これによりローマ軍は大損害を受け、正面からの戦いを避けるようになります。
(参考記事
【8月2日】殲滅の因果か怨念か。カンネエの戦い

 自軍の数倍にも達するローマ軍を殲滅したハンニバルは、次々と敵の防衛線を打ち破り、ついにはローマの城壁にまで到達しますが、進撃もここまで。
 持久戦に持ち込んだ圧倒的なローマの物量の前に徐々に情勢が苦しくなってきます。

「ザマの戦い」

 名将
スキピオの参戦で体制が整ったローマ軍は、いよいよ本格的な正面からの戦いに備えます。
 これが、第二次ポエニ戦争のクライマックスの「ザマの戦い」です。
Young_Folks_History_of_Rome_illus174.png
ハンニバルとスキピオの会見(Wikipedia)

 両軍は対峙するなかで、ハンニバルはローマの名将スキピオと会見します。スキピオはハンニバルの能力を高く評価していたし、ハンニバルもスキ ピオの才能に一目置いていました。
 ハンニバルはこれ以上の無益な戦いをやめて休戦交渉に入ることを提案しましたが、スキピオは拒絶、交渉は決裂します。

 結局、両者は自陣へ戻ってついに10月19日、「ザマの戦い」が始まります。

 ハンニバルの戦象隊の突撃をかわし、小集団の機動力を活かしたローマ軍は、かつてハンニバルがローマ軍を打ち破ったカンナエの戦いそのままの包囲殲滅が実現し、 ハンニバル軍は大敗します。

 この勝利によって事実上、16年間にも及んだ第二次ポエニ戦争が終結しました。



「ザマの戦い」以後

 戦後、スキピオは宿敵カルタゴに対し、寛容な方針で臨んだのですが、多くのローマ人はこの寛大な処置に大きな不満を持ちます。ローマ人の恨みはそれほど深いものでした。

 どちらかが滅びないと収まりがつかないところまで両者の恨み、憎しみは高まっていたのです。

 勝ったローマは、カルタゴ軍を解体し、以前にも増して過酷な賠償金を科したのですが、戦争に敗れたものの処罰されなかったハンニバルはカルタゴの行政改革に乗り出します。
 ここでもカルタゴ人は懸命の努力で経済復興に努め、この賠償金も予定年賦期間より早く支払ってしまいます。

 これに危機感を募らせたローマは、
元老カトーが中心となって、ハンニバルとカルタゴを滅ぼしてしまうことを決定し、無理難題を吹っかけて、カルタゴ人に反乱を起こさせようとします。

ハンニバルはカルタゴを脱出し、各地を亡命した後に自殺、カルタゴも武器も船も軍隊もないままに、絶望的な最後の戦いに突入していくのでした。これが
第三次ポエニ戦争
です。

 3年間に及んだ戦いの末、カルタゴは滅びました。ローマは、カルタゴの町を略奪し、破壊し尽くした上、その地に二度と穀物が生えないよう、塩を撒くほどの徹底ぶりでした。


 歴史は勝者のものになりますが、ハンニバルとカルタゴの名はローマに都合の良いように書き換えられてしまいました。
 ローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功したハンニバルは「ローマ最大の敵」と言われ、その名は「戸口にハンニバルがいた (Hannibal erat ad portas) 」、「危険が迫っていた」という意味の格言があるくらいです。
 それだけの強烈な印象をローマ人に与えたのでしょう。しかし、この最大の敵と戦うことによってローマ軍はハンニバルの包囲殲滅戦術を身につけ、その後のマケドニア戦争やローマ・シリア戦争にも完勝する程の強大な存在となったのも歴史の皮肉にも思います。




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