【7月25日】日清戦争勃発
日本軍歩兵の一斉射撃(ウィキペディア)
本日は、日清戦争が始まった日です。(1894年7月25日から1895年11月30日)約1年間に渡る日本という国にとって他国と戦う本格的な近代戦争でした。
太平洋戦争(大東亜戦争)の日本の敗戦ばかりが大きく取り上げられて「戦争反対」だの「平和憲法死守」などが叫ばれていますが、この当時の世論は戦争一色で、勝利に国民が喜びに湧いた戦争だったようです。
明治維新からこの日清戦争、日露戦争などの歴史の流れの中で太平洋戦争を考えていかないと、単純に戦争=悪の理論になってしまいそうで怖いですね。
1894年というと、1868年の明治政府創立からわずか26年後のこと。西洋強国の植民地戦争の厳しい時代、わずか30年あまりで清や朝鮮半島との開きが一気に出てしまったのは先代たちの努力によるものだと思います。
朝鮮半島を巡って戦った戦争の兵力は日本軍約23万人対清国軍63万人でしたが、日本の戦病死1400人あまりに対し、清の戦病死は3万5千人と大きな開きが出ました。装備の近代化・組織化などの人材育成を急ピッチで進めた日本軍と、近代兵器の購入だけで士気や兵士の育成に劣る清国の差が結果として出たものと思われます。
なぜなら、当時の清朝海軍の実力は世界8位、日本は16位と言われていましたし、米国も清朝陸軍の実力が世界の第3位だと認めていました。武器や兵力は優れていても、いざ戦うと弱いのは中国軍の伝統なのでしょうか。
→珍しい日清戦争の写真 日本軍の装備は清朝より見劣り
しかし、そんな戦死者の数よりも大問題なのが、病死の人数が1万2千人あまりということです。
これは陸軍を中心に流行った脚気 (参照→【7月9日】森鴎外と脚気論争。麦飯か白飯か。) やコレラやチフスなどの伝染病が原因となりました。戦死者よりも病気で亡くなった兵士の方が10倍ちかくも多いなんて悲惨な話です。
そして戦争そのものには勝ったはものの「三国干渉」など、まだ西洋諸国の強圧に屈するかたちになります。日本はこれから日露戦争という危険ともいえる大きな賭けに出ます。つかの間の平和は10年もありませんでした。
参考になります。
→「日露・日清戦争」何で勝てたの? 大艦巨砲主義さまのサイト
→「陸軍での脚気大流行」 ウィキペディア
結構、当時の写真って残っているものですね。
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【7月5日】日露戦争勝利の立役者。渋柿親父のメッケル
渋柿オヤジ こと、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル
本日、7月5日はメッケルという方の命日です。
正式名は、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、1842年3月28日 - 1906年7月5日)で、明治初期に日本陸軍兵制の近代化に貢献し、基礎を作ったドイツ帝国の軍人さんです。日清戦争・日露戦争での勝利の要因にはメッケルの指導があったとの高い評価もあります。日本陸軍大学校の学生から付けられた渾名は、渋柿オヤジ。禿頭で髭面、頑固一徹の典型的なドイツ軍人っていう感じの人です。
明治維新がようやく終わって近代化を急ピッチで行なっていた日本ですが、陸軍卿には奇兵隊出身の山県有朋が、海軍卿には勝海舟が就任します。海軍は、かの偉大な大英帝国がモデルとしてありましたので問題はなかったのですが、陸軍では、当初教わったナポレン時代の強いフランス式から、今流行りの新興国、ドイツ(プロイセン)式にするかで揉めていました。強い方のスタイルを学びたいのはどこの国も同じです。
山県有朋は1871年の普仏戦争でプロイセンが勝利した事を見定め、フランス式の軍制からドイツ式への転換を図ろうとします。
そこで、ドイツに兵学教官派遣を要請しました。幾度もの懇願の結果、誰が来るかと思いきや、招聘された人物は、ドイツ陸軍参謀本部長、有名な大モルトケの愛弟子、参謀の権威とまで言われた秘蔵っ子、メッケルです。聞いた日本政府は望外の喜びです。
日本からの度重なる兵学教官派遣要請にドイツが応じた理由ですが、先にフランスが派遣をしていたからでした。ドイツとフランスってほんとに意地を張りたがります(笑)。
しかし当の本人であるメッケル自身は、典型的なドイツ軍人、極東の無名の島国なんか行くもんかと激しく忌避します。大統領ヒンデンブルクまでも担ぎ出した 陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」とついに折れました。日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、行かせてしまえばなんとかなるだろうと、本人には内緒です。訪日の決意は、大好きなモーゼルワインが横浜で入手できることが分かったため。
メッケルは1885年に来日すると陸軍大学校教官に着任し、参謀将校の養成にあたります。指導は徹底しており、最初の1期生で卒業できたのは、東条英教(東条英機の父)や秋山好古 など、わずか半数の10人という厳しいものでした。しかし、その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉源太郎を始めさまざまな階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講したといいます。メッケルは約束通りに3年で退任、帰国しますが、メッケルの教育は実戦的として高く評価され、後年に至るまで陸大で行われました。
有名な逸話で、関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣図を見せられ、「どちらが勝ったと思われますか?」と質問された際、「この戦いは西軍の勝ちである」と答えたといいます(西軍は石田三成、東軍は徳川家康)。
布陣図から見ると東軍を包囲する様、鶴翼の陣に 布陣した西軍が有利であると判断したメッケルの分析は正しいものでしたが、東軍側が西軍諸大名に対して盛んに調略を行い、離反や裏切りを惹き起こした事 実を聞くと、改めて戦争で勝利するには調略と情報収集・分析が必要であるかという事を強く指導する様になったと言われています。
そんなメッケルですが、ドイツに帰国後も自らが育てた日本陸軍の発展に日頃から気を留め、日露戦争開戦時には児玉源太郎宛に、メッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送っています。また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日 本軍の勝利を予想し「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と 述べたと伝えられています。参謀というのは戦の運命を決定づけてしまいます。たった一人の参謀の出現が国を救うこともありえるのです。児玉源太郎が日本海海戦で指揮官でなかったら、かなり高い確率で負けていたとも言われています。日本国の恩人でもあるメッケルの指導には感謝だと思います。
有名な書籍、渡部昇一氏の名著
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秋山真之、児玉源太郎など登場します。良い本でした。
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【5月27日】バルチック艦隊撃破!日本海海戦
本日は、日本海海戦記念式典の日です。 1905年5月27日のこの日、日本海海戦で日本艦隊がロシアのバルチック艦隊に対して大勝利を収めたことを記念しています。海軍記念日は第二次世界大戦後に廃止されましたが、それ以降も財団法人三笠保存会などがこの日に記念式典を行っています。
さて、この日本海海戦(1905年5月27日〜28日)とは、日露戦争中に行われた海戦で、日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2、第3太平洋艦隊との間で戦われました。日本海軍連合艦隊は連合艦隊司令長官東郷平八郎の指揮下で、ロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力の大半を失わせたことに対し、日本海軍連合艦隊の損失は軽微のみという海戦史上まれな一方的勝利となったのです。
この海戦が決定的となり、日露戦争は終息へと向かいます。
当初は、日露戦争は、大国ロシアに対して、総力戦では絶対に勝てないといわれていました。だからこそ、どこかの段階でアメリカに調停に入ってもらわなければならないと、当時の内閣は考えていたのです。
そういう意味では、奉天会戦での勝利やバルチック艦隊撃破は、いかに有利な条件で講和するかの材料であったわけです。
この当時の日本の司令部は、”戦争は、政治目的達成のための手段である”(「戦争論」クラウゼウィッツ)ということを充分認識していたのです。
この海戦の勝利によって、両国間のポーツマス講和会議への道を開くことになります。講和条約により、日本は朝鮮半島における勢力を確固たるものとして国防上の課題を解決し、また関東州の租借権や南樺太を獲得します。もし、この戦争で日本が負けていれば朝鮮半島は確実にロシアのものになっていたでしょう。
世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は全世界を驚愕させました。また、この勝利は植民地支配にあえぐ有色人種達に衝撃を与え、独立・革命運動のきっかけとなり、欧米列強の植民地政策をぐらつかせる大きなターニングポイントとなったのです。←東郷平八郎
しかし、講和条約の内容は、賠償金を取れないなど、国民にとって予想外に厳しい内容だったため、日比谷焼打事件をはじめ、各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるにまでに至ります。
戦争を優位にするために、厳しい国内の内情をロシアに秘密にしていたせいもありますが、新聞などのマスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあります。あぁ、ここでもマスコミが、誤った扇動をするのですね。
さて、日本海海戦自体の話になりますが、この大勝利は偶然や運ではなく、徹底した戦略の元に行っています。
日本軍海軍参謀、秋山真之は、バルチック艦隊を迎え撃つにあたりT字戦法という戦略を立てました。 T字になることで、敵の先頭艦を常に圧迫するように進行することができ、そのため、指揮官が乗っている先頭艦を集中攻撃でき、敵の艦隊の命令系統を混乱におとしいれることができるのです。
この戦法での決め手は、横腹を見せて多くの砲門から撃つ砲弾が、どれだけ縦列陣を敷いてくる敵戦艦に命中するかという命中率にかかっていました。仮に、敵の砲弾のほうが正確に日本艦隊を射抜けば、惨敗もありえるわけです。
軍人秋山真之、兄好古も天才!
そこで、東郷平八郎は徹底的に艦砲射撃の訓練を繰り返しました。当時貴重品だった実弾をおしまず費やしたと言われています。とりわけ、高波の日の訓練は凄まじかったと言われており、波が高ければ、高いほど相手の砲撃の命中率が下がり、こちらの命中率が高ければ、砲弾によってあけられた吃水線上の穴からも海水が流れ込み、相手の艦が沈没しやすくなることからと訓練にも力が入りました。逆に、ロシア艦隊のほうは、有色人種に対する偏見もあったのでしょう、「自分たちの方が絶対に強い」と根拠なく日本人をナメきって油断していました。また長旅で疲労が溜まっていたということもあります。
結局、運も味方し、会戦当日は「本日、天気晴朗なれども浪高し」という状況で、訓練で鍛え抜かれた日本艦隊の圧勝となったわけです。
結果ですが、主力の日本戦艦 4 vs ロシア戦艦 11、 巡洋艦8:3の戦力差にもかかわらず、ロシア全滅に対し、日本側はゼロという圧倒的勝利をおさめます。

上記の表から分かるように、日本軍の損失は水雷艇の3隻のみです。また、戦力で中心となるのは戦艦、海防戦艦、装甲巡洋艦であり、この三種類の艦をどれだけ保有しているかで戦力をはかることができました。結果はロシアは巡洋艦4隻と駆逐艦3隻を残して全滅です。
ロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されましたが、日本軍の救助活動によって救命されることになります。また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護されています。当時の日本は戦時国際法に忠実であり、国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも戦時法遵守が末 端の小艇の水兵にまで徹底されていたのです。
ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国しました。軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできました。日本の戦時国際法の遵守には世界各国から賞賛が寄せられたそうです。
敵方の司令長官であったロジェストヴェンスキーは重傷を負い、佐世保の海軍病院に入院しましたが、この間、東郷大将が見舞いに訪れています。この時の東郷の礼節を尽くした扱いに感銘を受け、一生東郷を尊敬し続けたといいます。お互いに国のために勇敢に戦った者同士は、わかり合えるものがあるのでしょうね。戦わなかった者だけが、やれ賠償だ、謝罪だと叫び続けるのでしょう。
2005年5月には対馬市、横須賀市などでそれぞれ日本海海戦100周年記念の式典や大会が開催され、対馬市では海戦後初の合同慰霊祭も行われました。国のために戦った全ての兵士たちにに追悼の思いを捧げたいと思います。
→【9月5日】日露戦争と日比谷焼打事件
→【7月5日】日露戦争勝利の立役者。渋柿親父のメッケル



























