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【10月27日】ディティペアとセオドア・ルーズベルトの関係




454px-President_Theodore_Roosevelt,_1904
Theodore Roosevelt (1904) Wikipedia

 本日10月27日は、アメリカの26代大統領セオドア・ルーズベルトの誕生日です。

 愛称 ”テディ”と呼ばれた
セオドア・ルーズベルト(1858年10月27日 - 1919年1月6日)は、米国史上最年少の42歳の若さで第26代大統領になり、アメリカ合衆国の発展期に示したリーダーシップでよく知られています。
 歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでリンカーンやジョージ・ワシントンと並ぶ、現在でも偉大な大統領の一人として格付けされています。
 日本との関わりは、日露戦争の停戦を仲介して日本の苦境を救ってくれた面があります。その功績で初アメリカ人で初のノーベル平和賞を受賞しました。


テディベアとルーズベルト

Teddybear_cartoon.jpg テディペアとの関係ですが、テディベアの”テディ”というのは、 このルーズベルトの愛称からきています。
 1902年の秋、ルーズベルト大統領は熊狩りに行き、瀕死のクマに出くわしました。 ところが、大統領は打ち殺すことを拒み、その熊を助けました。
 その出来事が美談としてクリフォードベリーマンの風刺画とともに、 ワシントンポスト紙に掲載されました。 それを見たお菓子屋さんが、一体のクマのぬいぐるみを作り、 セオドア・ルーズベルトのニックネーム”テディ”をもらって”テディベア” と名付けたのがはじまりと言われています。
 同じ頃、ドイツのシュタイフ社がライプチッヒで行われた博覧会に熊のぬいぐるみを出品しました。 それがアメリカのバイヤーの目にとまり、3000体の注文を受けアメリカで大ブームが巻き起こり、 これもテディベアとよばれるようになってこの名称が定着したようです。


テディベアの日

 セオドア・ルーズベルトの誕生日である10月27日が、「テディベアの日」と言われているのは世界的な記念日ではなく、日本テディベア協会がルーズベルトの逸話にちなみ「相手の事を思いやる気持ち」をベアを通して伝える日にしようと提唱した日本独自の記念日だそうで。


→日本テディベア協会



テディベアのぬいぐるみ

 
なんといっても有名なのはドイツのシュタイフ社、イギリスのメリーソート社に代表されるような伝統的なテディベアでしょう。
 良い品質のもので、丈夫なもの、手、足、首がジョイントで可動するものを特徴としています。 抱き心地もよく、こども達が乱暴に取り扱っても壊れにくく、 100年以上経ってもきれいな状態で残っているものがあります。
 最高級ブランド、シュタイフ(Steiff)は、ドイツの職人の手作業で一体一体、丁寧に作られた逸品で、歴史にも度々登場、その文化的価値、芸術性は、世界中で高い評価を得ています。
限定のテディベアにはシリアルナンバーが刻まれた証明書が付いています。
贈り物には最高のプレゼントですね。


少年の夢が叶ったしゃべるテディベアが少年と共にダメダメな中年に。R15指定って(笑)
映画『テッド』予告編



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【10月26日】伊藤博文の暗殺と安重根




Itō_Hirobumi
伊藤博文(Wikipedia)

 1909年10月26日の本日は 伊藤博文の命日です。この日、韓国統監として、ロシアと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で安重根
に暗殺されました。

 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年10月16日〜1909年10月26日)は、日本人なら知る人ぞ知る有名な政治家です。明治維新の志士として倒幕運動にも参加し、新しい日本の基盤を作った重要な人物でした。
 
 日本初の内閣総理大臣としても知られており、初代のみならず、第5代・第7代・第10代と行い、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任しました。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したこと、アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされています。

 そんな伊藤博文の最後の仕事が韓国統監でした。60歳を超える高齢でこの任を引き受けたのは、伊藤博文以外にこの困難な任務をやれるのはいなかったからでしょう。

 伊藤博文自身は韓国併合には反対論者だったのはよく知られています。

 よく言われるのは、経済的理由。日本は、日露戦争には勝ったものの内情は、持てる力を使い果たしての辛勝だったので韓国を抱え込む余裕なんてないという判断です。
 韓国人自身は嫌ってはおらず、国内の腐敗した政治を取り除いて韓国のことは韓国に任せようとしていました。

 「国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない。」(新渡戸稲造『偉人群像』)

 ところが、そんな伊藤博文の真意を知らず、日本による韓国支配に反対する安重根に暗殺されてしまいました。

 日本の大切な重鎮を暗殺したのですから、当時の国内の日本人の怒りたるや凄いものです。併合なんて甘い、戦争論まで飛び出すことになります。その結果どうなったでしょうか?韓国はこの暗殺をきっかけに立ち上がりましたでしょうか。独立運動がゲリラのように起きましたでしょうか。
 ローマ vs カルタゴのように英雄ハンニバルを引き渡せとの高圧的な要求に対し、我が国の存亡を賭けてまで拒否し、ローマに立ち向かったカルタゴのような誇りと勇敢さはありましたでしょうか。

 いいえ、むしろ併合反対派最大の重鎮を失ったことでバランスは、圧倒的に併合賛成派に傾いてしまいました。
 韓国でも、日本の怒りを恐れる余り、「韓日合邦」を主張する一進会が勢いを増てしまい、日韓併合に傾いてしまいました。戦争勃発を恐れ韓国の方から併合を求めてきたのです。植民地支配ではありません。併合です。

 こんな情けない政治をしていたのに、手のひら返しでそんな安重根を英雄として称え、銅像や記念館まで建立しようとする現在の韓国は、日本人の怒りを買っていることを知るべきです。日本人ならどんな無礼をしても許されるという甘えがあるのではないでしょうか。

 ま、安重根のおかげで、韓国は日本に併合されたとも言えますので、その安重根を称える韓国は、本当は併合されて欲しかったのかともとられますね。その併合記念館なら判ります。普通の国の感覚ならなんてことをするバカな奴だと評価に値しないでしょう。現に北朝鮮では安重根は救国の意思は認めるものの手段としての「暗殺」は評価していません。

 安重根自身は立派な人格者だったとか、心から伊藤博文を憎んでいたわけではなかった、伊藤博文も安重根も、ともに日韓友好を願っていながら、誤解がもたらした、悲しい事件だったとする擁護論もありますが、「日本も韓国も感情的にならずにお互いに理解しよう」という言葉には納得できません。
 いやいや、いつも感情的に噛み付いてくるのはそちらでしょう。喧嘩両成敗みたいな言い方は止めて欲しいです。

 日本は韓国と付き合わなくても困りません。ネチネチと嫌がらせをしてくる相手には距離を置くのが大人の付き合い方です。我慢が溜まると一気に爆発するのも日本人の気質だったということを歴史から知るべきでしょう。

 単純に日本人を殺したから、義士として称える、その短絡的で幼稚な正義感が国を何度も危機に陥れているということを知るべしです。


800px-Series_C_1K_Yen_Bank_of_Japan_note_-_front.jpg 
1000円札の肖像画。当時は怒ってこなかった不思議。慰安婦と同じ現象ですね。




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【10月16日】マリー・アントワネット断頭台の露となる。




463px-MarieAntoinette1778.jpg

 本日10月16日
はフランス国王ルイ16世の王妃、マリー・アントワネット(フランス語: Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)が処刑された日です。享年37歳でした。

 マリー・アントワネットはオーストリア女大公
マリア・テレジアの11女としてウィーンに生まれました。
 当時のオーストラリアはプロイセン王国の脅威にさらされており、フランスとの同盟関係を深めようと、政略結婚のためにルイ15世の息子であるルイ16世のもとへと嫁ぎます。

 幸せだったオーストリアの幼少時代と違って、フランスではルイ15世の寵姫
デュ・バリー夫人との対決、宮廷の人間関係のトラブルに巻き込まれます。

 1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となるものの、民衆の貧困や食糧難など、王政に対する不満が募り、1789年ついにフランス革命が勃発します。


「パンがなければお菓子を食べれば良い」の真意

 貧しい暮らしに耐えている民衆を見て「パンがなければお菓子を食べればいいのに」という発言が有名ですね。

 マリー・アントワネットら貴族たちが、いかに庶民の困窮に無頓着で贅沢な暮らしをしていたかを強調して批判するためによく引き合いに出される話ですが、実際にはこういう発言をした事実はなく、そして、お菓子=贅沢品という訳でもなかったようです。



ギロチンとマリー・アントワネット

 革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑としました。そして、マリー・アントワネットもはじめから結果が決まっている裁判にかけられます。

Marie_Antoinette_Execution1_20131014165059630.jpg

 
多数の反革命を処刑するための、最初の生贄としてアントワネットを欲していたのです。
この時に発明されたばかりのギロチンが使われますが、詳しい下りはこちらの記事もご参照ください。


→【6月17日】ギロチンと処刑人。それにまつわる怖い話



 マリー・アントワネットは、こうして断頭台の露として消えていきましたが、彼女のその後、マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要しました。
 現在では、後述の「パンがなければ」の発言をはじめとする彼女に対する悪評は、その殆どが中傷やデマだということが判明しています。
 彼女個人や王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されて彼女や王権に対する悪意と憎悪がことさら生み出されます。


→マリー・アントワネットのエピソード



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