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【4月21日】英雄レッドバロンの戦死



マンフレート・フォン・リヒトホーフェン

 1918年4月21日
は、
マンフレート・フォン・リヒトホーフェン戦死の日になります。(1892年5月2日生〜1918月4月21日没 26歳)
 軍オタさんには、知る人ぞ知る有名な方。深紅の機体を操り、敵味方合わせてのトップに立つ、撃墜王です。
機動戦士ガンダムの赤い彗星ことシャア・アズナブルのモデルともなったお方です。


 第一次世界大戦の当時のドイツ、帝政プロイセン陸軍の騎兵将校であったといいますから、当時の飛行機乗りは騎兵将校という肩書きに分類されていたんですね。

 乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッドバロン(赤い男爵)」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれています。
 貴族出身であり、性格や気質も、騎士道精神にあふれ、共同撃墜の場合は戦友に功名を譲るなど戦友愛をもち、ストイックで責任感が強く統率力にとんでいたとのことですから、騎士道精神もあった、正に男の中の男であったといえます。

 彼の乗機は、主に以下のものになります。

アルバトロス D.II

アルバトロス D.V

フォッカー Dr.I

 有名なのがこのフォッカー Dr.Iですね。
 彼の最後の機体にもなりました。

Fokker.jpg

 この当時は、飛行機なるものが登場して、まだ二十年にも満たない時期でしたが、二度の世界大戦を経て航空機は兵器としても急激に進化していきます。

 この時期は大空に対するロマンがまだ残っていた時代だったのかもしれません。

 こちらは、管理人が大好きな映画です。

華麗なるヒコーキ野郎

ロバートレッドフォード主演です。実在の人物が主人公とされています。

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【4月18日】山本五十六大将の戦死の日



Yamamotos_airplane_crash.jpg
撃墜された山本長官搭乗機(ウィキペディア)


 1943年4月18日の今日、山本五十六海軍大将がアメリカ軍機により撃墜され戦死しました。これを海軍甲事件と呼びます。

 日本軍の暗号電報がアメリカ海軍情報局に解読され、待ち伏せを受けたことから発生しました。
 山本五十六といえば、真珠湾攻撃の発案者でもあり、アメリカでは超重要人物ですので、
この作戦も秘密裡に行われましたが、すでに米軍には察知されていたようです。

 日本が山本長官が搭乗している一式陸上攻撃機が2機、零式艦上戦闘機9機に対し、アメリカのP-38戦闘機18機(実際には16機)の襲撃で行われました。

P-38.jpg


 日露戦争の日本海海戦から軍艦に乗船し、米国駐在、ハーバード大学に留学、米国在勤帝国大使館附武官など、海外の事情にも詳しかった山本五十六は、欧米でもよく知られ、良くも悪くも日本の顔であった方だったと思います。

 軍令部参謀であった吉田俊雄は「太平洋戦争は山本五十六自身の戦争だった」との表現をしています。

 人物的には誰からも大変尊敬され、太平洋戦争当時の日本海軍の中では最高の指揮官だったと評されています。

「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。

 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

という言葉が残っております。

SC 2

それ以外の「今日は何の日」

●お香の日

全国薫物線香組合協議会が制定。
日本書紀の「推古天皇3(595)年の4月に淡路島に香木が漂着した」とあるのが日本のお香についての最初の記述であることと、「香」の字を分解すると「一十八日」になることから。

●発明の日
発明協会が1954年に制定。
1885年のこの日に現在の「特許法」の元となる「専売特許条例」が公布されたことが由来。

●よい歯の日
日本歯科医師会が1993年に制定。
「よ(4)い(1)は(8)」の語呂合わせで他に11月8日が「いい歯の日」となっている。



プラモデルに興味のある方はこちらの記事もどうぞ

1/144ヒコーキ工房
→山本長官と一式陸攻。そしてP-38Gライトニング


テーマ : 戦争
ジャンル : 政治・経済

【4月13日】カティンの森の悲劇



今回は、非常に重い話題ですが・・・。
 第二次世界大戦前夜のポーランドは、ドイツとソ連の強国に挟まれた形に位置していました。
 1939年8月、ナチス・ドイツとソビエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、両国はポーランドに侵入し、国土はドイツとソビエトの2ヶ国に分割、占領下におかれます。

 ポーランドの亡命政府は、この時にソ連に占領された自国の25万人の軍人と民間人が消息不明であるとソ連に何度も問い合せを行います。
 しかし、満足の行く回答は得られず、そのまま第二次世界大戦の戦火が拡大していきます。

 1941年ドイツは不可侵条約を破り、ソ連に攻め込みます。
 そこで、対ドイツで利害が一致したポーランド政府とソ連は一致協力してドイツと戦うことになります。

 この時にソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになりました。
 しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかったです。

 残りの捕虜たちは一体どこへ消えてしまったのでしょうか。

 ポーランド、ソ連領へと占領下の土地を増やしつつあったドイツ軍は、スモレンスクという地で、大勢のポーランド人捕虜たちが列車で運ばれ、銃殺されたという地元の噂を聞きつけます。

 そして、カティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見したのです。大量の将校達の死体。全ての将校が頭部をピストルで撃ち抜かれており、そのままの姿で埋められていました。

 この発見を受け、ナチスドイツは、対ソ宣伝に利用するために、大々的な調査を指令したのです。
 人道的な意味ではなく、対ソ連戦で優位に立つためです。

 そして、1943年4月13日。ドイツのゲッベルス宣伝相はラジオ放送を通して、スモレンスク郊外のカチンの森でソ連当局によって1940年春から夏に殺害されたと思われる数千人のポーランド軍将校たちの遺体を発見したと世界に向けて発表したのです。


 ソ連側はこのドイツの発表に直ちに反論し、ナチスがこの大量処刑を行ったと主張しました。しかし、これまで何度も、捕虜の消息を問い合わせ続けていたポーランド政府は大いに疑問を抱く訳です。ドイツが攻めてくる前にすでに捕虜達は消えていたのではないかと。

 そこで、ポーランド政府はスイスの国際赤十字にこの事件の調査依頼をしたのですが、このポーランド政府の行動はソ連に対する敵対行為とみなされ、ソ連はポーランドとの国交を断絶するという強硬手段に出ました。

 1941年7月30日のポーランド=ソ連 協定で持ち直したポーランドとソ連の外交関係は、カティンの森事件によって再び破綻していきます。

 しかし、枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣され、カティンの森の調査が大々的に行われることになります。
 調査場所はドイツの占領地内ですが、ソ連軍が迫る緊迫した状況下で行われました。

 遺体はいずれも冬用の軍服を装着、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っており、遺体の状況は死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連軍の犯行を窺わせます。

 ソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされますが、撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体にものぼりました。

 では、なぜソ連は、ポーランドの将校たちを虐殺したのでしょうか?
 その理由は、ポーランドを共産化したかったという点にあります。


 ポーランドの将校達はイギリスが承認したロンドン亡命政権の軍人達でした。
 イギリスが承認した亡命政権の傘下にあるポーランドの将校達は共産化を目指すソ連にとっては、邪魔な存在だったのです。
 スムーズにポーランドを共産化したかったソ連にとっては虐殺して民主主義の種を潰す必要があったのです。

 カティンの森の虐殺事件の目的とは、ポーランド支配の邪魔になるポーランド軍や警察などの権力機関や抵抗運動の指導者となりそうな者たちを物理的に抹殺することにあったと言えるでしょう。

 戦後、ドイツの敗戦により、そのままソ連領内に引き込まれたポーランドは、共産主義国家となります。
 亡命したポーランド政府も戻ってくることはできませんでした。
 カティンの森の話は長い間タブーにされていたのです。

 しかし、ソ連の崩壊、東欧全体の民主化運動が始まり、ポーランドも1989年に民主国家になります。

 ソ連も徐々に公式文文書の公開など、事件の事実を認め始めてきます。

 1990年には
NKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ミハイル・ゴルバチョフらはもはや従来の主張を継続することはできないと結論します。

 4月13日、タス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、ソ連政府は「スターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明したのです。

 犠牲者数は、同時期に他の収容所などで殺されたポーランド人と合わせて22,000人以上。
 職業軍人だけでなく、医師、大学教授、裁判官、新聞記者、司祭、小中学校教師など、国をリードする知識階層全体にもおよびました。

 2007年11月17日、ポーランド共和国下院は4月13日をカティンの森事件被害者追悼の日であると決議します。
 そして、2008年。ロシアのプーチン首相はポーランドのドナルド・トゥスク首相と会談し、事件が「スターリンの犯罪」であると言うことで一致しました。

 しかし,謝罪の弁は未だ得られてなく、責任を追及されたり、訴追されたものは一人も存在しないのも事実であり、事件は未だ終結していないと思います。

この事件について映画化されています。興味のある方は是非ご覧下さい。
DVDのレビューも力がこもっている力作レビューばかりです。






テーマ : 歴史
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