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【6月19日】エースパイロットのエンブレムとフェラーリとの関係




800px-FBaracca_1.jpg  
フランチェスコ・バラッカ伯爵

 6月19日は第一次世界大戦のイタリアのエースパイロット、フランチェスコ・バラッカ中佐(Francesco Baracca, 1888年5月9日 - 1918年6月19日)の戦死した日ですが、このバラッカの機体につけていたエンブレムと自動車の名門フェラーリにまつわる話を。

Cap 41

バラッカ少佐(最終階級は中佐)の愛機 スパッドXIII


 高級車で知られる
フェラーリのエンブレムですが、「跳ね馬」のデザインが有名ですよね。この紋章はイタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ」といいます。
 しかし、このデザインはドイツの
ポルシェとも似ています。このポルシェの跳ね馬は、ポルシェの本拠地であるシュツットガルト市の紋章が由来。これは間違いのない事実だそうです。
 ライバル同士なのになぜか同じ跳ね馬のエンブレム、そこには何か関係があるのか気になるところです。

Porsche_logo_20130620060152.jpg
左からフェラーリのエンブレム、シュトゥットガルト市の紋章、ポルシェのエンブレム

 さて、フランチェスコ・バラッカという人ですが、1888年、イタリア人貴族であるエンリコ・バラッカ伯爵の子息として生まれます。乗馬は貴族のたしなみ、軍人は貴族の努めですので、バラッカもはじめは騎兵将校になります。しかし当時の最新鋭の乗り物である飛行機に興味を持ち、フランスのランスで飛行機乗りになる為の訓練を受け、イタリア航空隊に所属することになりました。

 このように当時のヨーロッパの飛行機乗りたちは、騎兵隊出身の兵隊が多かったようです。
 これは、フランスなど、騎兵は偵察、並びに決戦兵科に属していましたので、馬の代わりに空を飛ぶ乗り物で遠くまで早く偵察ができるというのがその理由でもありました。また突撃の主役も馬から戦車に代わりました。

 第一次世界大戦は「馬と鉄砲で始まり、戦車と戦闘機で終わった戦争」と言われます。この戦争によって兵器の性能が大きく進歩しました。戦争は命がけですから科学力も飛躍的に進歩させてしまうのですね。

 そんなバラッカ少佐ですが、第一次世界大戦では、最初は偵察部隊での任務から戦闘機乗り、指揮官として活躍します。

 バラッカ少佐の率いる第91飛行隊部隊はエースパイロットがいるエース中隊として有名になっていきます。
 このバラッカ中佐が最初に所属していた騎兵隊の名称ですが、日本では「陸軍第11山岳騎兵連隊」ということで知られています。ウィキペディアでもそうなっています。
 しかし、これは誤りのようで、こんな部隊は存在していなく、現地のランチェスコ・バラッカ博物館にある履歴では、「第2騎兵連隊 ピエモンテ」が正解のようです。

→Sito Ufficiale Museo Baracca Francesco

 これはピオモンテという地名のPiemonte→Monte=山と誤認、山岳騎兵隊としてしまったようです。もしくは、ピエモンテの人は伝統的に山岳歩兵隊に入る人が多いらしいのでココらへんで混同して間違えたのか?2という数字もローマ数字のⅡを数字の11と間違えたという感じですね。ウィキペディアの鵜呑みは気をつけましょう。

 第2騎兵連隊のエンブレムにも跳ね馬が描かれていますね。 
Cap 40 愛機のエンブレムでは跳ね馬のみを大きく描いていますので、まるごと採用した訳ではないようです。

 ランチェスコ・バラッカ少佐は、6月19日に戦死するまでに最終撃墜数34機を果たし、イタリア空軍最高のエースとなり国民的英雄となりました。

 さて、フェラーリとの関係ですが、創立者である
エンツォ・フェラーリアルファロメオ
のレーシングドライバー時代に初優勝した際にバラッカ少佐の母親から贈られたものだというのが公式だそうです。

 これもウィキペディアを見ると諸説が出ていますが、兄アルフレードがバラッカ中佐の第91中隊所属していた縁もあったという説は、兄ではなく息子の名前です。(兄はディーノ)

 「英雄の母親とはいえ息子の部隊章の使用許可を与える権限はなく、この話はエンツォの創作ではないか」と考察している説
(「ブロック・イエイツ エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像 (集英社文庫)」による)も、エンブレムをよく見ると、バラッカの個人マーキングです。(部隊マーキングは反対側の胴体に描かれたフライングライオン)ですので、バラッカ中佐の母親がフェラーリにエンブレムを贈ることは問題がないように思います。
 なんかこのらへんの情報が錯綜していて定まっていないようですね。うーん。
 でも、イタリアの国民的英雄のバラッカ中佐のマークを自社のエンブレムにすることで箔がつくのは確かです。

 もうひとつの説もあり、バラッカ中佐が撃墜したドイツの飛行機が自分の出身地のシュトゥットガルト市の紋章をつけていたため、このデザインを頂戴した話があります。これは、実際にフェラーリが「跳ね馬」の紋章を登録商標しようとしたところ、シュツットガルト市がこのデザインの所有権を主張して紛糾したという話から来ているのかもしれません。この説では、撃墜したという戦闘機は名前が違いますし、現在では否定されているようです。
 でもシュツットガルト市はポルシェのデザインとして使用するのはOKを出したというのですから、ここら辺が因縁のライバルという感じで話し的には面白いですよね。
 また、騎兵部隊の馬である「カヴァリーノ・ランパンテ」は基本的には去勢した牡馬、すなわち男の子です。(なぜなら子供を産めるメスを戦争で失うのはもったいないため)
 これに対し、シュツットガルトとはそもそも「シュトゥート・ガルテン=牝馬(ひんば)の園」という意味であり、同市の市章に描かれた馬は実は女の子なのです。
 つまり両者は同根ではありません。言うなればフェラーリは男の子、ポルシェは女の子というわけですね。こういう話も面白いものです。

今回は色々な情報が錯綜していて時間がかかりました・・・。


フェラーリの公式サイトでエンブレムの由来を紹介をしています。


1916年11月の5機撃墜時に「跳ね馬」のマークをつけました。
→バラッカ中佐の全撃墜数

バラッカ中佐の乗機
・ニューポール 10
・ニューポール 11
スパッド S.VII
スパッド S.XIII (S.VⅡの大幅改良型。バラッカ中佐の最後の乗機)


エンブレムに関する話しが載ってます。

エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像 (集英社文庫)

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バラッカ少佐のプラモデルがつくれます。(現在品切れ中)
Cap 44


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【6月10日】ガウディと100年経っても建設中のサグラダ・ファミリア



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Antoni_Gaudi_1878

 本日はアントニ・ガウディ一の命日です。
 73歳になるガウディは、この日の3日前ミサに向かう途中、路面電車に轢かれ重症を負います。晩年は身なりに気をつかわなかったため、浮浪者と間違われて手当てが遅れてしまい、
6月9日の今日、息を引き取りました。(1852年6月25日生 - 1926年6月10日没)

 このガウディの作品は、一度見たら忘れられない、奇っ怪というのでしょうか、有機的というのでしょうか、なんとも不思議で、強烈な印象を与えます。
サグラダ・ファミリアグエル公園カサ・ミラ邸をはじめとしたその作品は、ユネスコの世界遺産にも登録されています。

サグラダ・ファミリア Bernard Gagnon撮影(ウィキペディア)
640px-Sagrada_Familia_02.jpg

グエル公園入り口
 es:Usuario:Rapomon撮影(ウィキペディア)
Parc_Guell_01.jpg

カサ・ミラ邸
 Diliff撮影(ウィキペディア)
640px-Casa_Milà_-_Barcelona,_Spain_-_Jan_2007

 ガウディは、スペインのカタルーニャ地方の出身ですが、この時代のスペインは、他にも、サルバドール・ダリジョアン・ミロ、そしてパブロ・ピカソも生まれていますから芸術家を生み出すものがあったのでしょうね。 
 
サグラダ・ファミリアは、ガウディの代表的な作品の一つですが、財政難から、100年経った今も建築途中でしたが、世界遺産に登録されたこともあって最近ではぐんぐん収入が増え、2026年には完成するといわれています。

 面白いのは、地下に高速鉄道のトンネルを掘削する計画で、中止を求めるやりとりの中で、サグラダファミリア建設が行政に届け出を出していない工事であることが明らかになり話題を呼びました。つまり、サグラダファミリアは違法建築だったんですね(笑) まあ、当時から作り続けているので、その後の行政になって忘れていたみたいです。

Googleでガウディの建築物のマップが公開されていましたので、興味のある方はどうぞ。

→Google ガウディマップ


管理人は栃木県の東武ワールドスクエアで見て来ました(笑)
写真の撮り方次第では本物そっくりに撮れそうです。

 サグラダ・ファミリアです。
DSCF0160_2.jpg

DSCF0162_2.jpg
工事中のところまで再現しています。


DSCF0184.jpg
グエル公園です。画面右上に巨人が!
いま話題の「進撃の巨人」ごっこができますね(笑)

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【5月30日】ジャンヌと魔女裁判



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 1431年のこの日  百年戦争のフランス勝利の立役者「オルレアンの少女」こと、ジャンヌ・ダルク(1412年1月6日 - 1431年5月30日
が敵国イギリス軍により火刑にされます。

 イギリスとフランスは仲が悪いことで知られていますが、その遠因はこの百年戦争にあるのではないかとも言われています。1338年から1453年まで115年にわたって続いた百年戦争は、イギリスとフランスの大陸における領土争いの戦争で、フランスは人口が1/3になるまで荒廃し、亡国の危機にさらされました。

 この戦争は当初はイギリス軍が優勢で、フランスの領地も次々と奪われていくのですが、オルレアンに住んでいた一人の少女が「神のお告げ」を聞いたとして立ち上がります。当初は半信半疑のフランス軍でしたが、軍隊を動員し、この少女に指揮をさせます。この少女こそが、ジャンヌダルクで、初戦でイギリス軍の砦を襲ってこれを撃退したことにより、フランス軍は大いに志気を盛り返し、以後連戦連勝をすることになります。

 その後、トロワ、シャロンと勝利を続け、翌年、コンピエーニュで敵軍につかまるまで、ジャンヌ・ダルクの活躍によりフランスは国土の大半を取り戻したのです。
 百年戦争自体はこのジャンヌ・ダルクの1年にわたる大活躍でフランスの勝利がほとんど確定、その後状況が変わることはなく、ジャンヌ死刑の22年後の1453年には和平が成立、百年戦争は終わりを告げることになります。

 彼女が敵軍につかまったのは1430年5月23日。コンビエーニェでした。彼女を捕らえ たのはフランスのブルゴーニュ軍ですが(当時はフランスは、ブルゴーニュ派とアルマニャック派に分かれて内戦状態にあった)、ブルゴーニュ軍は彼女を1万フランでイギリス軍に売り渡してしまいます。
 ジャンヌの活躍で王になれたシャルル7世ですが、ブルゴーニュ派と和解したい思惑に逆らって戦いを続けるジャンヌを助けることをしませんでした。シャルル7世としては、自分の命令を無視してブルゴーニュ派との戦いを続けたジャンヌをそうまでして助けるつもりはなかったようです。一時は身代金を払えばジャンヌを助けられたにも拘わらずです。色々事情はありそうなのですが、やっぱり評判悪い人です。

 イギリスにとっては憎き相手ですので、なんとしても死刑にしたいところ。当時、猛威を振るっていた、
魔女狩り、魔女裁判で異端教徒に仕立てようとします。
 ここからからのくだりは、ドロドロとした人間の嫌な面を見せられます。

詳しくはこちらのサイトさまで記載されていますのでどうぞ。内容的にはショッキングなものは含まれておりますので閲覧はご注意ください。

→ジャンヌ・ダルクの火刑

 監禁は1年も続き、ジャンヌは、とうとう自分の誤りを認める書類にサインして裁判は終了しますが、どうしても死刑にしたいイギリスの手によって難癖をつけられて、30日、ついに火刑に処せられてしまいました。遺体はジャンヌを聖女として信じる人の手に渡ることを恐れ、河に投げ捨ててしまいます。

 それからブルゴーニュ派との和平が成立し、イギリス軍に対して圧倒的な有利な状況になると、シャルル7世は、ジャンヌの復権を指示します。ジャンヌが刑死してから20年ですからかなり遅いです。
 1450年2月15日、シャルル7世の命令でジャンヌの裁判の調査が行われます。調査の結果、ローマ教皇は裁判のやり直しを命じ、復権裁判が行われます。
 かつてジャンヌと共に戦ったデュノワ伯ジャンや、オルレアンの市民たちを含めた115名の証人が呼ばれ、1456年7月7日、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて、処刑裁判の破棄が宣告されたのです。
 それからはジャンヌの名は地元以外では長らく忘れられていましたが、ナポレオンによりフランス全土に有名になり、その後、1920年5月16日にベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となりました。

 二度の世界大戦の狭間の時期で聖ジャンヌダルクはフランス愛国主義の象徴にもなりました。しかし、そんな扱いをジャンヌは望んだのでしょうか。ジャンヌが願い、戦って示したものはもっと大事なものだったのかもしれません。

 魔女狩りといい、この中世の時代の人々の不安や恐れが原因かとは思いますが、人間としてここまで残虐になれるのかという負の側面を学ばされる象徴的な事件であったと思います。


賛否両論分かれる映画でした。

中身検索ができます。鬱になる・・。


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