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【9月25日】士魂商才の男、五代友厚と大阪経済



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 本日は明治維新の立役者の一人、五代友厚の命日です(ごだい ともあつ、1836年2月12日〜1885年9月25日)。

 勇敢な薩摩藩士の武士でありながら実業家となり、当時瓦解寸前だった商工会議所などをつくったりして大阪経済の立て直しを行いました。通称「大阪の恩人」とも言われており、大阪証券取引所には彼の銅像があります。
 29歳の時、藩の命令で欧州留学を経験したことがあり、外国事情に明るく、30歳の頃には、薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任します。その後、戊辰戦争が勃発し、五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍することで、功績をつくり、明治元年(1868年)に明治新政府の外国事務局判事となり大阪に在勤となります。

 五代が着任した大阪では、日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかったといいます。
 条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていたとのこと。
 経営に才覚がありながら元来、薩摩武士ですので、不正行為は許せない性格。断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒みました。

また、商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念もありました。
 五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だったのですね。

 五代が50才の若さで亡くなった時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだと言われております。
 ちなみにこの五代友厚ですが、多くの明治維新の人たちの写真や肖像画があるなか、この方の写真は3本の指にはいるイケメンぶりだそうで。確かにエリートビジネスマン系の顔ですよね。
 ちなみに上位独占しているのは、木戸孝允、土方歳三たち。昔の人たちの顔は現代人と比べると目力がありますね。真剣に生きてきた証でもあるのでしょう。




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【9月23日】藤子・F・不二雄とドラえもん



Cap 574


 本日は、「ドラえもん」で有名な作者、「藤子不二雄」藤本弘の一人、「藤子・F・不二雄」氏の命日です。(本名、藤本弘 1933年12月1日 - 1996年9月23日
)、享年62歳でした。

 「藤子不二雄」はユニット名で、1951年にコンビを結成。1987年の解散までこの共有ペンネームを使用していました。本名は藤本弘(のちのペンネーム 藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(同 藤子不二雄Ⓐ)で、代表作は『オバケのQ太郎』(共作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)など多数にのぼります。
 
コンビを解消した後は「藤子・F・不二雄」と「藤子不二雄Ⓐ」の名前でそれぞれ活躍することになりますが、藤子不二雄Ⓐの代表作、『
魔太郎が来る!!』、『笑ゥせぇるすまん』など大人向けで少しブラックユーモアのスパイスが効いている作品に対し、 藤子・F・不二雄の作品は、『パーマン』、『21エモン』、『ドラえもん』、『キテレツ大百科』など、子供向け作品がメインなものが多いです。
 その手腕のあざやかさは、「子供たちの夢と願望を心にくいばかりに視覚化する」(呉智英『現代マンガの全体像』双葉社より)と評されるように極めて高い評価を得ております。

 コンビを解消してからも、それぞれが持ち味を活かし活躍をしていましたが、それだけに早めの他界が残念です。
 藤子不二雄Ⓐ氏は藤子・F・不二雄氏の分まで長生きして頑張っていただきたいと思います。







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【9月22日】零戦のエース、坂井三郎と零戦




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 9月22日は零戦のエースパイロット、坂井三郎氏の命日です(1916年8月26日 - 2000年9月22日)。享年84歳でした。
 日本のエース・パイロットとして知られており、戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』は世界的ベストセラーとなりました。イラク空軍では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もあるくらいです。
 世界的なベストセラーになった影響で、戦後、戦った相手のパイロットたちとの対談や、撃墜されてもおかしくない状況での大型輸送機に搭乗していた元従軍看護婦のオランダ人女性との再会など、数々のエピソードが生まれました。
 
 坂井三郎氏も、生き残った日本軍パイロットに多かった飛行時間の非常に多い古参パイロットです。初期の頃は練度も高く、充分な訓練を積んでいたので、数多くの実戦の中で亡くなるパイロットも多い反面、それでも飛行訓練が充分でないパイロットたちに比べると生き残る率は格段に高いようでした。

 1938年には九六式艦戦に搭乗しており、以後、最新鋭の零戦に搭乗、1942年に戦線離脱するまでは、最前線で戦い続けました。
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 最大の危機は1942年8月7日に訪れます。SBDドーントレスの編隊をF4Fの編隊と誤認してしまい、後方から近づいたところを後部の旋回機銃にやられてしまいます。
 初弾が坂井三郎の頭部に命中、幸い致命傷は免れましたが右側頭部を挫傷し、出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たしました。

 約2年間もの戦線離脱になりましたが、1944年6月には戦列に復帰し、2機撃墜を果たします。
 しかし、右目の視力を失いつつあった坂井機は母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという以前の坂井にはあり得なかったようなミスを犯し、敵戦闘機15機に包囲されてしまいます。
 結局、奇跡的な操縦で全ての銃弾をかわし帰還するのですが、戦後、「大空のサムライ」が出版されると、この時の相手の一人であったランシー・リッチ少尉という方の評言も得られ、「大空のサムライ」の描写以上に、坂井機が激しく攻勢に出ていたことを示唆しています。

 また、坂井機には、僚機の被撃墜記録がありません。これは352機撃墜のドイツ空軍のエースパイロット、
エーリヒ・ハルトマンと同じ記録であり(実際は、一回だけ、僚機撃墜されるものの搭乗員は無事生還)、並大抵の記録ではないとのことです。

 ちなみに日本ではドイツのように厳正な撃墜数を記録することはなく、自称、何機撃墜というかたちになっていますが、それでいうと「
岩本徹三」氏の200機撃墜が最高で(※80機説もあり)、二番手が「西沢広義」氏の87機。「福本繁夫」氏72機撃墜。「杉田庄一」氏70機撃墜に次いで「坂井三郎」氏60~80機撃墜(※30機説もあり)。となります。(※エアワールド誌1994年3月号別冊による)


 坂井三郎氏ですが、戦後は印刷会社を経営しながら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆します。
 2000年9月22日、厚木基地で催されたアメリカ海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として招かれ、帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去されました。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となったそうです。





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