【10月26日】伊藤博文の暗殺と安重根
1909年10月26日の本日は 伊藤博文の命日です。この日、韓国統監として、ロシアと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で安重根に暗殺されました。
伊藤 博文(いとう ひろぶみ、1841年10月16日〜1909年10月26日)は、日本人なら知る人ぞ知る有名な政治家です。明治維新の志士として倒幕運動にも参加し、新しい日本の基盤を作った重要な人物でした。
日本初の内閣総理大臣としても知られており、初代のみならず、第5代・第7代・第10代と行い、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監を歴任しました。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したこと、アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされています。
そんな伊藤博文の最後の仕事が韓国統監でした。60歳を超える高齢でこの任を引き受けたのは、伊藤博文以外にこの困難な任務をやれるのはいなかったからでしょう。
伊藤博文自身は韓国併合には反対論者だったのはよく知られています。
よく言われるのは、経済的理由。日本は、日露戦争には勝ったものの内情は、持てる力を使い果たしての辛勝だったので韓国を抱え込む余裕なんてないという判断です。
韓国人自身は嫌ってはおらず、国内の腐敗した政治を取り除いて韓国のことは韓国に任せようとしていました。
「国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない。」(新渡戸稲造『偉人群像』)
ところが、そんな伊藤博文の真意を知らず、日本による韓国支配に反対する安重根に暗殺されてしまいました。
日本の大切な重鎮を暗殺したのですから、当時の国内の日本人の怒りたるや凄いものです。併合なんて甘い、戦争論まで飛び出すことになります。その結果どうなったでしょうか?韓国はこの暗殺をきっかけに立ち上がりましたでしょうか。独立運動がゲリラのように起きましたでしょうか。
ローマ vs カルタゴのように英雄ハンニバルを引き渡せとの高圧的な要求に対し、我が国の存亡を賭けてまで拒否し、ローマに立ち向かったカルタゴのような誇りと勇敢さはありましたでしょうか。
いいえ、むしろ併合反対派最大の重鎮を失ったことでバランスは、圧倒的に併合賛成派に傾いてしまいました。
韓国でも、日本の怒りを恐れる余り、「韓日合邦」を主張する一進会が勢いを増てしまい、日韓併合に傾いてしまいました。戦争勃発を恐れ韓国の方から併合を求めてきたのです。植民地支配ではありません。併合です。
こんな情けない政治をしていたのに、手のひら返しでそんな安重根を英雄として称え、銅像や記念館まで建立しようとする現在の韓国は、日本人の怒りを買っていることを知るべきです。日本人ならどんな無礼をしても許されるという甘えがあるのではないでしょうか。
ま、安重根のおかげで、韓国は日本に併合されたとも言えますので、その安重根を称える韓国は、本当は併合されて欲しかったのかともとられますね。その併合記念館なら判ります。普通の国の感覚ならなんてことをするバカな奴だと評価に値しないでしょう。現に北朝鮮では安重根は救国の意思は認めるものの手段としての「暗殺」は評価していません。
安重根自身は立派な人格者だったとか、心から伊藤博文を憎んでいたわけではなかった、伊藤博文も安重根も、ともに日韓友好を願っていながら、誤解がもたらした、悲しい事件だったとする擁護論もありますが、「日本も韓国も感情的にならずにお互いに理解しよう」という言葉には納得できません。
いやいや、いつも感情的に噛み付いてくるのはそちらでしょう。喧嘩両成敗みたいな言い方は止めて欲しいです。
日本は韓国と付き合わなくても困りません。ネチネチと嫌がらせをしてくる相手には距離を置くのが大人の付き合い方です。我慢が溜まると一気に爆発するのも日本人の気質だったということを歴史から知るべきでしょう。
単純に日本人を殺したから、義士として称える、その短絡的で幼稚な正義感が国を何度も危機に陥れているということを知るべしです。
1000円札の肖像画。当時は怒ってこなかった不思議。慰安婦と同じ現象ですね。
スポンサーサイト
【9月25日】士魂商才の男、五代友厚と大阪経済
本日は明治維新の立役者の一人、五代友厚の命日です(ごだい ともあつ、1836年2月12日〜1885年9月25日)。
勇敢な薩摩藩士の武士でありながら実業家となり、当時瓦解寸前だった商工会議所などをつくったりして大阪経済の立て直しを行いました。通称「大阪の恩人」とも言われており、大阪証券取引所には彼の銅像があります。
29歳の時、藩の命令で欧州留学を経験したことがあり、外国事情に明るく、30歳の頃には、薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任します。その後、戊辰戦争が勃発し、五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍することで、功績をつくり、明治元年(1868年)に明治新政府の外国事務局判事となり大阪に在勤となります。
五代が着任した大阪では、日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかったといいます。
条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていたとのこと。
経営に才覚がありながら元来、薩摩武士ですので、不正行為は許せない性格。断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒みました。
また、商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念もありました。
五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だったのですね。
五代が50才の若さで亡くなった時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだと言われております。
勇敢な薩摩藩士の武士でありながら実業家となり、当時瓦解寸前だった商工会議所などをつくったりして大阪経済の立て直しを行いました。通称「大阪の恩人」とも言われており、大阪証券取引所には彼の銅像があります。
29歳の時、藩の命令で欧州留学を経験したことがあり、外国事情に明るく、30歳の頃には、薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任します。その後、戊辰戦争が勃発し、五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍することで、功績をつくり、明治元年(1868年)に明治新政府の外国事務局判事となり大阪に在勤となります。
五代が着任した大阪では、日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかったといいます。
条約違反、購入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いまでもが平気で行われていたとのこと。
経営に才覚がありながら元来、薩摩武士ですので、不正行為は許せない性格。断固たる態度で臨み、一切の妥協を拒みました。
また、商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念もありました。
五代は商人である前に「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出来ない性分だったのですね。
五代が50才の若さで亡くなった時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだと言われております。
ちなみにこの五代友厚ですが、多くの明治維新の人たちの写真や肖像画があるなか、この方の写真は3本の指にはいるイケメンぶりだそうで。確かにエリートビジネスマン系の顔ですよね。
ちなみに上位独占しているのは、木戸孝允、土方歳三たち。昔の人たちの顔は現代人と比べると目力がありますね。真剣に生きてきた証でもあるのでしょう。
ちなみに上位独占しているのは、木戸孝允、土方歳三たち。昔の人たちの顔は現代人と比べると目力がありますね。真剣に生きてきた証でもあるのでしょう。
【9月23日】藤子・F・不二雄とドラえもん
本日は、「ドラえもん」で有名な作者、「藤子不二雄」藤本弘の一人、「藤子・F・不二雄」氏の命日です。(本名、藤本弘 1933年12月1日 - 1996年9月23日)、享年62歳でした。
「藤子不二雄」はユニット名で、1951年にコンビを結成。1987年の解散までこの共有ペンネームを使用していました。本名は藤本弘(のちのペンネーム 藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(同 藤子不二雄Ⓐ)で、代表作は『オバケのQ太郎』(共作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)など多数にのぼります。
コンビを解消した後は「藤子・F・不二雄」と「藤子不二雄Ⓐ」の名前でそれぞれ活躍することになりますが、藤子不二雄Ⓐの代表作、『魔太郎が来る!!』、『笑ゥせぇるすまん』など大人向けで少しブラックユーモアのスパイスが効いている作品に対し、 藤子・F・不二雄の作品は、『パーマン』、『21エモン』、『ドラえもん』、『キテレツ大百科』など、子供向け作品がメインなものが多いです。
その手腕のあざやかさは、「子供たちの夢と願望を心にくいばかりに視覚化する」(呉智英『現代マンガの全体像』双葉社より)と評されるように極めて高い評価を得ております。
コンビを解消してからも、それぞれが持ち味を活かし活躍をしていましたが、それだけに早めの他界が残念です。
藤子不二雄Ⓐ氏は藤子・F・不二雄氏の分まで長生きして頑張っていただきたいと思います。



















