【12月31日】年越しそばはいつから始まった?
本日12月31日は「大晦日」です。一年の終わりの日ですね。今年も色々なことが起きました。
年越しの行事ですが、除夜の鐘や紅白歌合戦が有名ですね。
その後いそいそとお出かけの準備をして近くの神社仏閣にお参りにいくのが日本人の慣習ですが、大晦日の夜から行く「除夜詣」と元日の朝に行く「元日詣」との2つに分かれるそうです。
さて、大晦日の夜には「年越しそば」を食べる習わしが広く伝わっていますが、これは、江戸時代の中期から始まったそうです。
これは縁起を担ぐ日本人らしく、蕎麦は他の麺類よりも切れやすいことから一年の苦労や厄災を断ち切るというという意味と、そばは細く長くのびることから寿命を延ばし、家運を伸ばしたいという願いがこめられているとのこと。なるほどですね。
今年の統計では、大晦日に年越しそばを食べる人は74.9パーセントにのぼるそうで、文化として深く定着していることが窺えますね。
→『年末年始の過ごし方』に関するアンケート(ネットリサーチ調べ)
【12月30日】アジアに初めて地下鉄が開通。地下鉄記念日
本日12月30日は「地下鉄記念日」となっています。1927年のこの日、上野 - 浅草間に日本初の地下鉄(現・東京メトロ銀座線)が開通したことを記念してつけられました。
1927年といったら大正天皇大喪の年です。大正デモクラシーが終わりを告げ、昭和が始まる年ですね。
上野〜浅草間といえば電車でも上野駅→稲荷町駅→田原町駅→浅草駅(銀座線)と歩いても8kmの短い距離ですが、地下鉄ができたことに人々は喜びました。当日は2時間の行列ができるほどの反響だったとか。待ってる間に歩いてもいけちゃうと思いますが(笑)。アジア・オセアニア地域では初めての地下鉄路線だったそうです。
暖かくなったら散歩で銀座線の上を歩いてみるのもいいかもしれませんね。江戸の風情が残る情緒豊かな景色が楽しめることと思います。
【12月29日】森羅万象を見つめた少年。南方熊楠
本日12月29日は、日本の博物学者、生物学者、民俗学者で知られる南方熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〜1941年12月29日)の命日です。
生物学でも特に菌類学で有名で、粘菌の研究で知られており、主著『十二支考』『南方随筆』など、投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、平凡社編集による全集も刊行されています。
「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している、いわば天才にありがちな奇人・変人に類する方でしょうか。
坂本龍馬が暗殺された騒乱の1867年に和歌山県に生まれ、子供の頃から、驚異的な記憶力を持っていて、神童と呼ばれる少年でした。常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという恐るべきことをしています。当時の百科事典にあたる『和漢三才図会』105冊の抄写や、植物図鑑である『本草綱目』等の筆写は有名な逸話であり、5年あまりで完成させたといいますから驚きですね。
学校では問題児で、面白くない授業を抜け出して昆虫や植物の採集に没頭し、野山を歩き回って2~3日家に帰らないことも多く、そんな熊楠少年のことを周囲の人々は天狗(てんぎゃん)と呼んでいました。
こんな優れた記憶力に知識欲の強い南方熊楠ですから、周囲の反対を押し切ってアメリカに勉強しに乗り込んでいきます。
その頃から様々な外国語を習得し、やがて18カ国に通じるとまで言われるようになりました。
その習得方法が驚きで、対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚えるの2つだけであったといいます。
ロンドンにも渡り、独学で科学雑誌「ネイチャー」に「極東の星座」という論文を投稿し、一躍有名になります。その後も投稿を続け、熊楠の名が知られるようになり、ロンドン大学事務総長ディキンスなど著名人たちとの親交を結ぶことになります。この時に中国革命の父といわれる孫文(そんぶん)と知り合い、意気投合して毎日のように語り合ったといいますから凄いですね。
熊楠は、1900年に帰国するのですが、何の学位もとってこないで、おびただしい書物と標本ばかりを持ち帰ってきたのに弟はあきれてしまったそうです。大教授や研究所主任研究員とかの肩書きはなく、まるっきりのフリーの研究者でありました。勤め人ですらなかったのです。
その後は、日本の総合雑誌や専門雑誌の多くが登場し、熊楠はこれらの雑誌に矢継ぎ早に寄稿していきます。
その中でも、柳田國男との往復書簡や日本民俗学誕生と発展に多大な影響を与えます。
最大の功績は世界に誇る「日本産菌類の彩色生態図譜」の大集成で、5000種の収集を目標に掲げ、4500種、15000枚の彩色図譜が完成しました。この中には新属発見の「ミナカ テルラ・ロンギフィラ」、「粘菌生態の奇現象」、「魚に寄生する藻」の発見など、菌類、粘菌類、藻類などについて、世界に誇る数々の業績をあげ、その分野の発展に多大な功績をあげています。
今の天皇の教育責任者であり、南方熊楠を尊敬していた小泉信三は「在野無援の一私学者でこれだけの造詣と業績とがあったことは、日本の学問の歴史に伝ふべきことである」と賛辞をおくっています。
世間では、行動力と奇行が話題にされがちで、本来の学問に対する姿勢や業績はあまり知られていませんが、その功績が再評価され、現在も研究が進んでいるそうです。
南方熊楠記念館には、熊楠の遺品、資料、関連書籍などの一部を、一般に公開し、熊楠の業績と生涯を来館者に伝えています。
→南方熊楠記念館のHP
【12月28日】仕事納めと大掃除の日
いよいよ年の瀬、仕事も今日で終わりの日に会社で大掃除を行うところも多いと思います。
この年末に大掃除を行うのは日本独自の文化らしいです。ちょっと意外でした。
年末の大掃除は、今年の住環境に対する感謝、そして来年もどうぞよろしくお願いしますという素直な感情から生まれた習慣だそうです。
一年分の汚れを除去し、新たな年に歳神を迎える準備をし、新年を新たな心持ちで始められるようにする意味があるとのこと。そういえば、日本では学校行事で学期末などに一斉に行う掃除も日本ぐらいだそうで。
宗教的な意味合いが入るとこの大掃除は「煤払い」と呼ばれます。神社仏閣においては歳末の恒例行事ですね。檀家さんも呼ばれてみんなで一斉に大掃除を行います。
日本は四季が豊かで節目節目にこういう行事があるのがとても良いと思います。
【12月27日】ピーターパンとセックスシンボル
本日12月27日は「ピーターパンの日」です。1904年のこの日、イギリスの劇作家ジェームス・バリーの童話劇『ピーターパン』がロンドンで初演されたことに由来しています。
ピーター・パンは海賊のフック船長やインディアンのタイガーリリーがいる異世界・ネヴァー・ネヴァー・ランド(ネバーランド)に住み、妖精・ティンカーベルと共に冒険の日々を送る永遠の少年です。
このネバーランドにはピーターと同じように親とはぐれ年を取らなくなった子どもたちがいて、ピーターは彼らのリーダー的な存在です。
大人にならない永遠の少年という設定から「ピーターパン症候群」という言葉も生まれています。これは、大人という年齢に達しているにもかかわらず精神的に大人にならない男性を指す言葉で、「ニート」とか「引きこもり」などの良くないイメージとして共に使われる場合もあるようです。
さて、このピーター・パンの外見ですが、緑の服に細い足、尖った耳を持つ少年のイメージが浸透していますが、これは ギリシャ神話で登場する ”パーン(パン)神”をモチーフにしているという説があります。
『ピーターパンはセックスシンボルだった』(クレスト社1996年発刊)という書籍でしたが大変興味深い内容でした。この書籍によると、ピーターパンの原型は人間とヤギを合体させた半人半獣の神から来ているそうです。そういえば、彼の足がスマートで細いのは、痩せているからではなくヤギの脚だからで、耳が尖っているのも、ヤギの耳だからだそうで。
つまり、ピーター・パンは上半身が人間で、下半身がヤギの半獣神という姿で、ディズニーのアニメも、こうした西洋の文化的背景をじつによく調べ、ピーター・パンにシュリンクスの葦笛をもたせ、ヤギの耳、細い脚、おかしな靴からは蹄、帽子を取ればヤギの角が出てくる事を連想できるように描いているそうです。うーん、そう言われればそう見えますね。
このヤギの半獣神は、古代ギリシャの理想郷 “アルカディア” に棲み、羊の世話をしていました。そしてこの神は生命力、生殖力、男根の神として崇められていた。ということで、いわば男性の憧れでもあるわけです。
ちなみに「パニック」という語源もこのパーンから来ているそうで、古代ギリシアの人々は、家畜の群れが何の前触れもなく突然騒ぎだし、集団で逃げ出す現象について、家畜の感情を揺り動かす見えない存在が牧神・パーンと関係していると考え、これを「パーンに関係するもの」(パニック)と呼んだそうです。ピーター・パンの全身を覆う緑色は “自然” それも単なる自然ではなく、つねに生命力が芽吹き、緑の木々が茂る生命力の旺盛なアルカディアの森を暗示していて、ピーター・パンや妖精ティンカー・ベルが棲む夢の楽園ネバー・ランドは、この半獣神パンや妖精たちがいるアルカディアのイメージに繋がるわけですね。
よって「ピーター・パンの物語」には、表と裏のシナリオがあることがわかります。表のシナリオでは、愛と冒険、友情の “ファンタジー” で、裏のシナリオには、生とは何か、死とは何かという、性とはなにかという人間にとって普遍的かつ根源的テーマが隠されているとのこと。
つまり、表は児童向けのシナリオ、そして裏は大人向けのシナリオなのだそうです。
その他にも、フック船長のチクタクワニとの関係が「時間の流れの中の生と死に関する暗示」など意味深なストーリーが沢山隠されていることを考察しています。
この本、絶版なのですが、是非一読されることをオススメします。
→(Amazon)ピーター・パンはセックス・シンボルだった―なぜ、人は彼を愛しつづけるのか (クレスト選書)
【12月26日】プロ野球誕生の日
太平洋戦争が始まる6年前の 1934年12月26日に、アメリカのプロ野球との対戦のため、現在のプロ野球リーグでは最古のプロ野球チーム・大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が創立されたことに由来しています。
この3年前の1931年。読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカ大リーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めました。
これを受けて再度、大リーグ選抜軍の招待して興行を行う予定でしたが、1932年に文部省が発令した野球統制訓令によって大学チームを対戦相手とすることはできなくなってしまいました。この野球統制訓令とは、学生野球の商業化の禁止などが中心になって発令されたため、その対策として職業野球チームを結成することにします。
これが今のプロ野球のスタートになりました。
最近はプロ野球の人気も大分陰りが出てきて、サッカー人気に押されていますね。今後、人気が復活することはあるのでしょうか。
【12月25日】イエス・キリスト生誕とクリスマス
12月25日といったらクリスマスですね。日本でクリスマスと言うと ”イエス・キリストの誕生日でそれをお祝いする日”と考えられていると思います。最近ではそれすら忘れられていて恋人の日とか、プレゼントの日とか、食卓がいつもより豪華なケーキとチキンの日みたいになっていますよね・・・。
しかし新約聖書には、イエス・キリストの誕生日を特定する記述は書かれておらず、実際にイエスが生まれた日は不明だそうで、4月から9月の間らしいのです。そして少なくても12月の寒い月ではないということは確定されているそうです。あれれ???
ということで、自分はイエス・キリストの生まれ変わりだとか、イエスの霊言ができるなどと称して、「雪のさんさんと降る夜に私は生まれたなど」と日本人のイエス生誕のイメージをそのまま言う宗教家や霊能者がいたら胡散臭いと思いましょう(笑)。
とういうことで、各宗派がそれぞれに日付を定めてキリストの生誕を祝っていましたが、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、336年にミトラ教の祭である冬至祭の日であったこの日をイエス・キリストの降誕の日と定めてからこの日がクリスマスの日となりました。
現在ではキリスト教においてのクリスマスは「イエス・キリスト降誕を記念する祭日」と位置づけられており、「救世主イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけでは無いそうで。
「聖☆おにいさん」、ブッダとイエスが日本の立川で休暇を楽しむという面白いコミックです。
【12月24日】Uボートの海の親でヒトラー最期の後継者。カール・デーニッツ死去
第二次世界大戦の開戦時にドイツ海軍の潜水艦隊司令としてUボート作戦を指揮し、連合軍を苦しめ、終戦時にはドイツの国家元首として、ヒトラー総統から後任を任された軍人でした。
チャーチルを最も苦しめたドイツの軍人の一人とも言われています。
戦争が始まるとデーニッツは、ドイツ海軍の潜水艦隊司令としてUボート作戦を指揮します。ドイツでは開戦時、57隻のUボートを保有していましたが、デーニッツは当初より300隻のUボートが最低でも必要だと発言していました(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)。この数は、通商破壊に必要な数はおろか訓練用にも事欠く状態で、開戦時にデーニッツはその現状を嘆いたと言われています。
しかしデーニッツの巧みな作戦指揮や後のUボートの優先生産計画に支えられ、「灰色の狼」「群狼作戦」と呼ばれる潜水艦作戦は英国への最大の脅威として恐れられることになります(戦後チャーチルは「私が本当に怖れたのは、Uボートの脅威だけである」とまで言われています)。
最終的にこのU−ボートは、1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげることになります。しかしそれと引き換えに849隻のUボートの損失を出しました。損失率75%。4隻に3隻は撃沈されたことになり、約3万もの兵士が戦死しました。過酷な戦いだったのです。
当初は優勢だったU−ボートも、電子戦では遅れをとり、徐々に守勢に回ってきます。この戦いの中でデーニッツは自らの作戦で、次男を失うことになります。そして最後まで戦い続けることを主張していたデーニッツにヒトラーの後継者の指名が下ります。時は1945年4月30日。ヒトラー総統が自殺をした日でした。
デーニッツは、「ソ連が中部ヨーロッパに進出すれば力の均衡はソ連側に大きくふれてしまうため、英国は平和交渉に応じる。そのためには、交渉のテーブルに着ける能力をもたねばならず、防戦を続けるべきである。」と主張していたのです。ドイツ兵がソ連で拘束されるとソ連領内の数百万の命が東部戦線やその奥地で失われることをデーニッツは恐れていました。
1945年5月1日デーニッツはヒトラーの死を国民に公表します。そしてドイツ全土が軍事占領されての「自然的終戦」ではなく「公式降伏」が必要と判断します。ソ連の容認できない残虐行為が報告されており、アメリカやイギリスには降伏し、その間、ソ連から兵士や国民を救出するためでした。
連合国に対し降伏が終わった後の5月23日デーニッツは逮捕されます。ニュルンベルク国際軍事裁判では、連合軍検察の「侵略戦争の積極的遂行」などの罪で死刑が求刑されたのに対して、禁錮10年の判決が言い渡されました。なお、同時に「罪となるべき事実」とされた「無制限潜水艦戦争」については、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツが大統領命令で提出した、「同様の行為を米軍が太平洋で行った」ことの証言がなされたためか、無罪が言い渡されています。デーニッツは、「海軍の名誉の為にこの無罪を得たからには、私自身の運命などどうでもよい」と裁判について述べています。そして1956年に釈放されることになります。
釈放後は、回想録『10年と20日間』を執筆し、晩年は信仰に拠り所を求め、1980年病気のため自宅で死去しました。その死亡記事は全世界の新聞に配信されました。
ちなみに被告人全員に対して行った知能検査によると、デーニッツの知能指数は138で、ヘルマン・ゲーリングと並んで全被告人中、第3位の知能の高さであったそうです。
【12月23日】東京タワーにまつわるちょっと怖い話を。
本日12月23日は祝日ですね。今上天皇陛下のご生誕をお祝いする国民の祝日です。いつまでもお元気でいて欲しいと願います。
それとは別にもうひとつの記念日があります。それは「東京タワー完成の日」1958年の今日、東京都港区芝公園に東京タワーが完成し、完工式が行われました。1957年6月29日着工、翌年12月23日に完工式が開かれました。意外と早い建築期間ですね。
さて、東京タワーといえば、昭和を代表する有名な建築物ですが、これにまつわるほんのり怖い話を。
【東京タワーの足の一つは墓地から出ている】
東京タワーは増上寺の墓地を潰して建てられています。なぜ、こんな所に建てたのでしょう?この影響もあるのか、非常階段を駆け下りる女性の霊や、鉄脚付近で遊ぶ着物姿の少女の霊など、東京タワーでの霊の目撃例が非常に多いとのこと。墓地の上に建てられていることと関連性があるのでしょうか・・・。
また西側の鉄脚は少しづつ地中に沈んでいるという都市伝説もあります。
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【東京タワーの鉄骨には朝鮮戦争で使われた戦車でできている】
これも有名な話です。東京タワーの1/3にあたる3000トン分、約90台分の戦車が溶かされて鉄骨として使用されたそうです。戦争が終わってアメリカに持ち帰るより日本に売却したほうが米軍も好都合だし、日本も良質な鉄が手に入るのでお互いに好都合でした。
【東京タワーの建築は、とび職の技術によってつくられた】

管理人的にはこの話が一番キモを冷やしました。怖いです。命綱はあったらしいですが、とび職人のプライドが許さなかったようです。これだけの危険な仕事をしているのに犠牲者が1人だけというのも驚きです。高い技術をもった集団だったのですね。
東京タワーの特別展望台よりさらに上の270メートル付近には、タワー建設にかかわった96人の技術屋たちの銘碑が取り付けされているそうです。
この東京タワーの立てられた土地は、江戸時代よりはるか前から貝塚であり、前方後円墳「丸山古墳」「亀塚古墳」があるところです。いわば、日本古来からこの土地は霊を祀る墓地であった訳ですね。
その場所に戦争で使われた戦車の鉄を利用した巨大な鉄塔が建つ。しかもその足の一つはお寺から出ている・・・・・。うーん。意味深です。
管理人的には中にある「蝋人形館」がリアルで怖かったですね(2013年閉館)。故人をまるで生きているかのように蝋人形で展示するのもなにか意味があるのでしょうか。なぜ東京タワーの中で?
何か、表の電波塔としての役割とは違う、裏の全く別の目的があるように思えるのも東京タワーの魅力かもしれませんね。
【12月22日】仲間の身体を食べて生き延びた、ウルグアイ空軍機571便遭難事故
1972年の12月22日のこの日、ウルグアイ空軍機571便遭難事故でアンデス山中に墜落した乗客の生存者16人が71日ぶりに救出されました。
71日もの食料のない雪中の中、彼らはどうやって生き延びたのか。その証言はセンセーショナルなものでした。
事件は1972年10月13日にさかのぼります。ステラ・マリス学園のキリスト教徒からなるラグビー選手団とその家族や知人を合わせた一行40名が、チリのサンティアゴでの試合に向かう途中、アンデス山脈の峰に衝突します。機体はバラバラになりますが雪がクッションの役目を果たし胴体の大部分は無事でした。しかしこの時点で、死亡12名、行方不明5名、生存28名になってしまいます。
生存者たちは板チョコレート数枚と、その他のスナック菓子、ワイン数本という少量の食料を持っていました。墜落後の数日間、彼らはこの食料が尽きないように少量を分配していきます。
無線は通じず、機体が白いことから発見も困難になり、日はどんどん経過していきます。
約10日経った10月22日。配給管理されていた食料がついにそこを尽きます。ついに遺体を口にして生存を続けるか否かが機体内で議論が行われます。この間にも、怪我や疲労で一人、また一人と亡くなっていきます。
翌日の10月23日。生存者たちは、機体の中で発見したラジオを通して、捜索隊が自分たちを発見出来ないまま捜索を中止したことを知ります。こうなった以上、自力で脱出をするしか方法はありません。
不幸は更に彼らを襲います。10月29日。生存者たちが機体の中で眠りにつこうとしていたとき、雪崩がすさまじい勢いで機体の中に流れ込み、機体の中で横たわっていた全員を埋め尽くしました。比較的浅く埋まった人は、雪で埋まった人を救おうとしたが、19人の生存者を残して8人が死亡しました。この時点で、死亡26名、生存19名になってしまいます。3日間、機体は雪の下に埋まり、生存者たちは非常に狭く閉じ込められた中で生き延びなくてはなりませんでした。
11月は、遠征隊を組み、遠方に落ちた尾部から無線機やバッテリーなどを運び修理をすることに専念します。
12月11日。最後の犠牲者が出ます。この時点で、死亡29名、生存16名となります。
12月12日。ついに最終的な遠征隊を出す事にします。最終的なメンバーは2人。山中を10日近く歩き続け、12月20日ついに川の対岸で麓の村人たちを発見します。
翌日、村人たちに救出された2人は事情を伝えます。そして12月22日、ついに全員が救出されました。これは世界中に大きなニュースとなって駆け巡ります。
報道陣の関心は、「72日間もの間、どうやって生き延びることができたのか?」の一点でした。
生存者たちは、救助直後には機内に持ち込んでいたチーズを食べて生き延びていたと説明していましたが、家族と詳細かつ内密に議論し、遺体を食べざるを得なかった事を公にしようと考えます。
12月26日。生存者たちは、モンテビデオへ戻るときに記者会見を行います。内容はとても衝撃的なものでした。再会を喜んだ家族たちの動揺もありました。また、チリの雑誌は事故機のまわりに横たわる手足や骨の写真を掲載します。
好奇の目に晒され、生存者は人肉を食べるよりもむしろ死ぬべきであったとまで議論が進んだとき、カトリック教会は迅速にこうした素朴な反応を却下します。
「あなたは彼らに死ねと命じることはできない」
「生き残る可能性がただ1つしかなかったとき、つまり極限状態にあったとき、その人とともに残ったのが人肉であったということである。」
この教会の発表で、非難はなくなるのですが、逆に彼らは国家的英雄に祭り上げられることになります。彼らの勇気、忍耐、機転を描く記事が数多く現れだしました。
自分がこのような状況に置かれたらどうでしょうか。仲間の肉を食べて生きのびるしかないという選択肢はとてもつらいし、勇気のいることだと思います。自分が死ぬべき側の人間であるなら、自分の肉を食べてでも生きのびて欲しいとは思います。
29人は帰らぬ人となりました。しかし、彼らのおかげで16人が生きて帰ることができたのです。考えさせられるテーマではありますね。
【12月20日】生きる化石。シーラカンスの発見
本日12月20日は「シーラカンスの日」となっています。昔からずっと変わらず、周りの変化についていかない人を指して「シーラカンスみたい」などと揶揄されるぐらい有名な魚です。
化石などによって7500万年前に絶滅したと考えられていたこの魚が、1952年のこの日、アフリカ・マダガスカル島沖で捕獲され、学術調査が行われました。
実は、1938年にも南アフリカで捕獲されて生存は確認されていたそうなのですが、ちゃんとした学術調査が行われたのは今回が初めてだそうです。 この最初に発見は、まるで生きた恐竜が現代に出現したかの如く世界の生物学者を驚かせました。それは20世紀最大の生物学的発見とも言われました。
それから14年後に学術調査の目的も兼ねて2匹目のシーラカンスが捕獲され、以後同島付近で200尾ほどが捕獲されています。
さて、シーラカンスが「生きている化石」と呼ばれる所以ですが、はるか昔、陸上に進出しようとしていた頃の魚達の直系の子孫で、しかもその当時の形質を殆ど変えないままに今も生きている、生物進化史の貴重な存在だからといわれています。

しかし、このような「生きた化石」と呼ばれる生物は実は私達の身近にも生息しています。
それは・・・・。なんとゴキブリ・・・・!!!
恐ろしいことにゴキブリは、恐竜が栄える前から出現し、ある意味で恐竜よりも先に栄えた生き物です。もちろん、ゴキブリよりも先に栄えた生き物はいますが、ゴキブリのその歴史の長さを覆すことはできません。ゴキブリは発生した石炭紀(現在より3億5920万年前から2億9900万年前までの時期)という時代からその形態を変えずに現在に至っています。人類より長い大先輩なのですね。
さて、シーラカンスは日本では「アクアマリンふくしま」で常設展示を行っています。
興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
→アクアマリンふくしま展示ガイド
【12月19日】日本初飛行の日。徳川家の末裔が空を飛ぶ。
一昨日の17日は、ライト兄弟の人類初の有人動力飛行に成功した日でした(1903年12月17日)。
日本ではその7年後の1910年12月19日に、東京の代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本初の飛行に公式に成功しました。
この徳川大尉は、清水徳川家の第8代当主で田安徳川家、一橋徳川家に並ぶ徳川御三卿の一つの出です。時代が時代なら将軍さまになったかもしれない人なんですね。
実は、この5日前の12月14日に日野熊蔵大尉という人が、60m程度の飛行を行いこれを初飛行とすることもあるのですが、公式の飛行実施予定日ではないことや、初飛行の根拠となっている距離60mは唯一「初飛行」と報じた萬朝報の記者の目測であり、取材していた他9紙は距離を記載しておらず初飛行とも報じていません。「飛行」とは翼の揚力が機体の重量を定常的に支え、操縦者が意のままに機を操縦できる状態を指すため、「飛行」ではなく「ジャンプ」であるとして、航空力学的にも初飛行とは言えないとされています。
【12月18日】ルーデル大佐〜戦車部隊1個軍団を撃滅した男
世の中には嘘のような本当の話というものが存在しますが、このハンス=ウルリッヒ・ルーデル(1916年7月2日 - 1982年12月18日)という人物が成した出来事は、その筆頭にあげられるのではないかと思います。
それは、たった一人の人間が(正確には二人乗り)飛行機を駆り、戦車部隊1個軍団(またはそれ以上)を撃破したという紛れも無い事実の話です。
その名もハンス=ウルリッヒ・ルーデル大佐。軍事マニアの間では知らない人はいない、超有名人、人外の人、最強の破壊神とまで言われています。
簡単な調べものはウィキペディアを見ていますが、それとは別のウソとジョークとノーチェックで執筆できる 「アンサイクロペディア」という素敵なサイトがあります。
しかし、この「アンサイクロペディア」の中でもこの「ハンス・ウルリッヒ・ルーデル」の項目はあまりにもすごすぎ、アンサイクロペディアなのに誇張がほとんど無いという一風変わった内容になっています。
まずはこれがWikipediaの記述。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル - Wikipedia
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel, 1916年7月2日 - 1982年12月18日)は、第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人。急降下爆撃機Ju 87 スツーカで歴史上で最も多くの戦車を撃破した撃墜王ならぬ「戦車撃破王」である。フォッケウルフ Fw190での地上支援や空戦もかなりの回数があり、エースの条件とされる「敵機を5機以上撃墜」も満たしている為、第二次世界大戦のドイツ空軍を代表するエース・パイロットの一人にも数えられる。
で、こっちがアンサイクロペディア。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル - アンサイクロペディア
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel、 1916年7月2日 - 1982年12月18日)は、第二次世界大戦の際に活躍したドイツ軍人にして、ソ連人民最大の敵であり、スツーカの悪魔にして絢爛舞踏、そして地上に舞い降りた魔王である。朝起きて出撃して朝飯食って牛乳飲んで出撃して昼飯食って牛乳飲んで出撃して夜飯食って牛乳飲んで出撃してシャワー浴びて寝るという毎日を送ってたら、いつのまにか戦車519台を撃破し、世界最強の戦車撃破王になっていた。
なお航空機撃墜数も9機なので、れっきとしたエースである。間違いなく彼のスコアは世界記録であり今後絶対に更新されることは無いだろう。
あれ、ほとんど変わらないですよね(^^;) というか、むしろアンサイクロペディアの方が分かりやすいです(笑) 。
このルーデル大佐の戦歴ですが、
戦車 519輌(この数は戦車部隊一個軍団を撃滅したのに相当する)
装甲車・トラック 800台以上
火砲(100mm口径以上) 150門以上
装甲列車 4両
戦艦 1隻(マラート) (ルーデルの爆撃によって2番主砲塔より前部(一番主砲塔・艦橋・一番煙突含む)を失い大破着底。マラートはこの後も残った砲を用いて戦闘に参加するも、 ドイツ軍地上部隊からの砲撃もあって1942年末までにすべての主砲を下ろし半ば放棄されている。終戦後数年を経て浮揚・修理された)
嚮導駆逐艦 1隻
駆逐艦 1隻
上陸用舟艇 70隻以上
航空機 9機(戦闘機 2、爆撃機 5、その他 2。9機のうち1機はJu87G型の37mm砲によって撃墜されたものである)
という、冗談のような成果です。一体何百トンの鉄クズをつくったのでしょうか。事実は小説よりも奇なりとはよく言いますがそんなレベルではありません。人生を突き詰めると冗談のようになるというレベルです。
わずか24発の銃弾を搭載した37mm砲や、250〜1800kgの複数の爆弾のみでの成果ですから、頭がくらくらしてきます。
これは、嘘でも冗談でも誇張でもなく、ドイツの成果確認は厳密で有名で、本人だけの自己申告だけでは認められません。また相手方のソ連側からも、スターリンから「ソ連人民最大の敵」と名指しで罵倒され、賞金首になってしまいます。その額、なんと5億円!(10万ルーブル。当時の平均年収が600ルーブルなので、300万円として換算)。いかにソ連が憎悪していたかが分かるエピソードだと思います。
さすがにこのマンガも真っ青の展開に対してアンサイクロペディアでも泣きが入っており、「こんな嘘くさい事実に対して、これ以上嘘を加える事なんて不可能だよ!」「事実なんだって。嘘じゃないんだ、ほんとだよ。そりゃあスターリンも泣きたくなるってもんでして。」と書かれています。あぁ・・。
マンガだったら、「嘘くさいからキャラ設定やり直して来い!」と言われるレベルです。
ヒトラーの「死んだら全軍の志気にかかわるから出撃するな」という再三の命令も完全無視、出撃を隠してその成果を部下たちに全部あげていたらその部隊だけの成果が突出してばれたそうで。え、ということは、実際の成果はもっと上ってことですよね・・・・。
またルーデルの成果に見合う勲章がついになくなったので、もう特別に作らせたとか。
そんなルーデル大佐のまとめサイトも秀逸ですので、是非御覧ください。
→【はちゃめちゃ軍人】ハンス=ウルリッヒ・ルーデル【本当に実在?】
もはや実在すら疑われています(笑)。
そんな傍若無人ぶりを発揮させたルーデルですが、戦後も戦争犯罪に該当するものもなかったため、直ぐに釈放、実業家としてのかたわら、アルペンスキーで南米選手権において優勝。趣味の登山では400mも落下するものの打撲と痣だけですんだという強運ぶりも発揮しております。49歳のときに28歳年下の女性と再婚という、あいかわらずの凄いエネルギー(笑)
また、湾岸戦争で活躍したアメリカの近接航空支援専用機であるA-10サンダーボルトの開発にも顧問として参加して大きな影響を与えています。
戦争末期にドイツ中央軍集団を率いたフェルディナント元帥からは「ルーデルは一人で一個師団の価値がある」 とまで言わしめた大佐ですが、うそのようなホントの話ってあるもんですね。
自伝が出版されていますが、いかんせん翻訳が古くて新訳が望まれます。
【12月17日】飛行機の日〜ライト兄弟初飛行
本日12月17日は、「飛行機の日」です。
1903年のこの日、アメリカ・ノースカロライナ州のキティホークでライト兄弟が人類初の動力飛行に成功しました。兄ウィルバー・ライト、弟オーヴィル・ライトの二人による偉業でした。
よく間違えられるのですが、空を初めて飛んだのはライト兄弟ではありません。
まず先に気球による有人飛行が成功しています。これは1783年11月21日にフランスのパリで1783年モンゴルフィエ兄弟が熱気球による初の有人飛行に成功しています。実際に気球に乗った人物ですが、始めは死刑囚をのせる予定だったのですが、人類初の栄光を囚人に与えてはならないと、二人の勇気あるフランス人の若者ロジェとダルラントが名乗り出て史上初の有人飛行が行なわれました。ですので、世界で初めて空を飛んだ人はフランス人の若者、ロジェとダルラントの二人ということになります。
(参考記事) →【6月5日】熱気球が飛んだ日!
1891年には、ドイツ人のオットー・リリエンタールという人がグライダーによる飛行実験に成功しています。これは、空気より重い機体での初飛行の成功になります。
(参考記事) →【8月10日】空へ駆ける夢。オットー・リリエンタール
その後、ライト兄弟が、12年後の1903年に飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功したことになります。この機体は「ライト・フライヤー号」として有名なのですが、正確に言うと「最初の動力付きで、パイロットが搭乗して継続的に飛行し、機体を操縦することに成功した、空気より重い空飛ぶ機械」ということになっています。
ちなみにこのライト・フライヤー号、ライト兄弟の初飛行100周年にむけて、ライトフライヤー号を復元する研究がいくつか行われたのですが、コンピュータのシミュレーションでは姿勢が安定せずに普通に飛べず、完成した復元機に至っては離陸すらできなかったそうです。ライト兄弟が成功したのは当日の強風と、兄弟の操縦技術のおかげだという見解もあるそうで。
ここまでが、世界的によく知られている歴史ですが、人類初の有人動力飛行の名誉がライト兄弟に与えられるまで紆余曲折があったのはあまり知られていないようです。それは弟、オーヴィルが飛行機を発明したことを後悔するほどのものでした。
この時代はエジソンたちにも見られる名誉とお金がからむ特許争い時代でした。ライト兄弟の成功と飛行技術に関する特許取得は、飛行機が兵器として注目されていたこともあり、争いや妬みの対象にもなりました。
特に明らかな敵意で持って臨んできた人物にチャールズ・ウォルコットと、グレン・カーチスがいます。二人共航空機のパイオニアなのですが、名誉と特許争いのためにタッグを組んでライト兄弟と争います。
ウォルコットは、スミソニアン協会の会長でもあり、前会長サミュエル・ラングレーが失敗した有人飛行機の「エアロドローム」の汚名を挽回したいと考えていました。そこでようやく1914年に飛行に成功したエアロドームを1903年のライト兄弟たちの初飛行の年の段階にまで形状を戻して「有人飛行可能な世界初の飛行機」として自分たちの協会の博物館に展示します。カーチスはそのことで、ライト兄弟の名を貶め、特許争いを優位に進めようと画策します。
当然ライト兄弟は抗議を行いますが、協会側は徹底的に無視します。
このやり方は功を奏し、一般にも世界初飛行に成功したのはラングレーだと思い込む者が増えたそうです。
それは、1908年にフランスのシャンパーニュで行われた、世界最初の飛行大会で、グレン・カーチスがめざましい成績を示したことに対して、ライト兄弟は入賞すら出来なかったことで、知名度にも差をつけられたことにもあるといえます。
そんな中、失意と法廷闘争の疲労もあり、兄ウィルバーは1912年、腸チフスで死去します。
しかし、ライト兄弟が世界最初の有人動力飛行を行った事を高く評価する人も一部にはいました。協会に無私され続け、陽の目を見ることなくマサチューセッツ工科大学の倉庫に保管されていたライト・フライヤー号は、イギリス・ロンドンの科学博物館の希望を受け、海を渡ります。
イギリス旅行に来たアメリカ人は「何故ライトフライヤー号がこんな場にあるのか?」と驚き、それはやがて世論となり、スミソニアン協会もいつまでも無視するわけにはいかなくなってきました。
ウォルコットの死後、1928年に会長職を継いでいたチャールズ・アボットは弟オーヴィルと面談し、ライトフライヤー号をアメリカに戻すよう要請します。それに対する弟オーヴィルの条件はただ「歴史を正しく修正する」ことのみであったそうです。そして1942年ついにスミソニアン協会は声明を発表。ライト兄弟の偉業を認め、兄弟に陳謝しました。これを受け入れ、オーヴィルはライトフライヤー号をアメリカに戻すことに合意します。その後、第2次世界大戦などの混乱もあり、ライトフライヤー号がアメリカに戻ってワシントン国立博物館に展示されたのは初飛行成功からちょうど45年経った1948年12月17日のことでした。盛大な展示除幕式が行われましたが、オーヴィルはすでに同年1月30日に76歳で死去していたため参加することはできなかったのです。
人類初、世界初という名誉は歴史に残るものなので、欲や妬みなどが人間の負の側面がつきまとうのでしょうか。
さて、このライト兄弟の名誉は実は日本人に与えられていたかもしれないという驚きの事実はご存知でしょうか。それは、二宮 忠八という人の発明で、「玉虫型飛行器」と呼ばれるものでした。
【12月16日】自ら命を絶った天才プレイヤー。ウィリアム・ラーンド
そんな中で、米西戦争を挟んで活躍した天才プレイヤーウィリアム・ラーンド(William Larned, 1872年12月30日 - 1926年12月16日)をご存知でしょうか。
本日12月16日は彼の命日です。享年54歳。死因は拳銃自殺でした。
ウィリアム・ラーンドは、アメリカ・ニュージャージー州サミット出身の男子テニス選手。「ビル・ラーンド」(Bill Larned)とも呼ばれていました。
1901年から1911年までの間に、全米選手権(現在の全米オープンテニス)男子シングルスで、大会歴代1位タイ記録の「7勝」を挙げます。
彼のテニスは、サイドラインぎりぎりに決める正確なグラウンド・ストロークを中心に、攻撃的なオールラウンド・プレーを得意にした選手でした。
当時のテニスはイギリス全盛期でしたが、彼はアメリカの国力が上がる象徴のようにアメリカテニス界を押し上げるのに大いに貢献した選手だったのです。
1898年に起きた米西戦争で、ラーンドは志願兵としてキューバに赴きます。ラーンドはその従軍期間中にリウマチ熱に感染し、これが原因で彼は後年悩まされることになります。
彼は、戦争後にも黎明期のアメリカテニス界を代表する活躍をしますが、1898年の米西戦争従軍時に感染したリウマチ熱の症状があらわれ、彼は1912年のデビスカップ戦敗退を最後に39歳で現役引退を余儀なくされます。
引退後はラケットの販売会社を設立していましたが、リウマチ熱の症状はさらに悪化し、最後は脊髄膜炎で体が麻痺しはじめました。病状悪化に絶望した彼は、54歳の誕生日を迎える2週間前の1926年12月16日にニューヨークの自宅でピストル自殺をしてしまいます。
その後、国際テニス殿堂が設立された後、ウィリアム・ラーンドは殿堂入りを果たしています。
戦争の後遺症が彼の活躍を妨げたのは哀しいことでした。
【12月15日】井上成美。太平洋戦争の行く末を正確に予言した海軍大将
大日本帝国は西郷従道(西郷隆盛の弟)から始まり、1945年の敗戦まで77名の大将がいますが、その歴史の最後を飾る大将となりました。
米内光政・山本五十六・井上成美は俗に「海軍省の左派トリオ」と言われ、ドイツ、イタリア、日本との三国同盟に絶対反対の態度を堅持していました。
陸軍が日独伊三国同盟の締結を画策すると、ドイツ・イタリアが頼みにできないこと、三国同盟によって英米を敵に回しては勝てないことを冷静に判断し、海軍省軍務局長として、海相・米内光政、次官・山本五十六とともに阻止に動き、一度は破談に追い込むところまでいきます。
反対の理由は、
- 経済的に見て、三国同盟は論外。日本経済は、そのほとんどを米英圏に依存している。特に海軍にとって最重要の石油と屑鉄は米国から購入している。三国同盟を結べば、英国、さらに米国を敵に回し、日本は石油と屑鉄の供給を絶たれる。
- 軍事的に見て、三国同盟は無意味。地理的に遠く離れた日本と独・伊は相互援助が不可能である。
- 独国のヒトラーは、【わが闘争】『Mein Kampf』で述べているように、有色人種を蔑視して、ドイツ民族による世界制覇を目指しており、いずれ破綻するのは目に見えている。イタリア駐在武官時代の経験から、イタリアは、外見は立派でも頼むに足りない。(井上はドイツ語の原著を読んで日本語訳ではカットされている日本人蔑視の部分を知っていました)
井上が、三国同盟に強力に反対した最大の理由は、独国が提案してきた条約案に、自動参戦義務条項 「独国または伊国が戦争状態に入った場合は、日本は自動的に戦争に加担する」があったためでした。
しかし1939年に、第二次近衛内閣により、日独伊三国同盟が締結され、いよいよ英米との戦いへの道が引かれ始める時期にきた1940年に、海軍航空本部長に就任します。
航空戦力を重視していた井上成美はこの時に「新軍備計画論」を練り上げます。
この内容は、
- 航空機の発達した今日、主力艦隊と主力艦隊の決戦は絶対に起らない。
- 巨額の金を食う戦艦など建造する必要なし。敵の戦艦など何程あろうと、我に充分な航空兵力あれば皆沈めることが出来る。
- 陸上航空基地は絶対に沈まない航空母艦である。航空母艦は運動力を有するから使用上便利ではあるが、極めて脆弱である。故に海軍航空兵力の主力は基地航空兵力であるべきである。
- 対米戦に於ては陸上基地は国防兵力の主力であって、太平洋に散在する島々は天与の宝で非常に大切なものである。
- 対米戦では之等の基地争奪戦が必ず主作戦になることを断言する。換言すれば上陸作戦並びにその防禦戦が主作戦になる。
- 右の意味から基地の戦力の持続が何より大切なる故、何をさておいても、基地の要塞化を急速に実施すべきである。
- 従って又基地航空兵力第一主義で航空兵力を整備充実すべきである。之が為戦艦、巡洋艦の如きは犠牲にしてよろし。
- 次に日本が生存し、且(かつ)、戦を続ける為には、海上交通の確保は極めて大切であるから之に要する兵力は第二に充実するの要あり。
- 潜水艦は基地防禦にも、通商保護にも、攻撃にも使える艦種なる故、第三位に考えて充実すべき兵種である。
まさに井上成美は、太平洋戦争の経過を、戦争が始まる前の1941年の段階で概ね正確に予想したのです。
当時のアメリカでさえ、ここまでの予想はしていなかっただけに、井上成美の 非凡さ、本質を見る眼の鋭さには驚嘆させるものがあります。
1941年、ついに日米は開戦しますが、この直前、井上成美は勝てないと分かっていて開戦することに絶対反対の立場でした。それは同じく反対派であった山本五十六が近衛文麿首相から戦争の見通しについて聞かれ、「1年は戦って見せるが、その後は保証できない」と答えたことについても「絶対にできないと言わなければだめだった」と、結果的に近衛に期待感を抱かせてしまったことを批判しています。
また、開戦に際して祝意を述べた参謀に「バカヤロー!」と怒鳴りつけたとも言われています。
実際の戦では、南洋にて指揮をとるが、その戦いぶりは拙劣で、戦争下手との評価をとってしまったようです。
1945年、終戦。戦後はその責任を感じ、人前に出ることはせず、英語教師を細々と続けます。東条内閣の海相の嶋田繁太郎が海上自衛隊の練習艦の壮行会で乾杯の音頭をとったことを聞くと「恥知らずにもほどがある。人前に出せる顔か」と激怒したといいます。
井上成美ほどの知識派が戦争を食い止めることができなかったのはやはり時代の流れだったのでしょうか。マスコミが扇動し、国民の殆どが戦争に向かっていった流れの中では致し方なかったのかもしれません。
また、この「新軍備計画論」が軍部にもっと受け入れられれば、日本も優位に戦うことができ、被害が少なかったかもしれません。
井上成美は、その後もひっそりと余生を暮らし、戦後30後の1975年亡くなります。享年86歳でした。
【12月21日】終戦直後の日本を襲った「昭和南海地震」の日
本日12月21日は「昭和南海地震」の発生した日です。
終戦間もない1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分過ぎにM8.0の地震が日本を襲います。南西日本一帯では地震動、津波による甚大な被害が発生しました。
実はこの1940年半ばの日本は、戦争という人的な大きな被害に加え、大地震にも襲われています。
戦争中の1943年から4年連続で発生したこの地震は4大地震といわれ、いずれも死者1,000名を超す大地震となりました。
鳥取地震〜1943年(昭和18年)9月10日17時36分54秒に発生したM7.2の地震。震源地は鳥取県。 死者 1,083人
東南海地震〜(昭和東南海地震)〜1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分に発生したM7.9 震源地は伊半島東部の熊野灘。東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けた。死者行方不明者 1,223名
三河地震〜1945年1月13日愛知県の三河湾で発生したM6.8の直下型地震。死者2,306人、行方不明者1,126人
昭和南海地震〜1946年12月21日午前4時19分に発生したM8の地震。震源地は紀伊半島沖。死者1,330人
東南海地震の三河地震は、軍需工場が壊滅的な打撃を受けたこともあり、国民の不安や士気が下がることを恐れ、情報統制が引かれました。
戦争終盤で戦局が非常に厳しい時に加え、米軍の爆撃に加え、地震という天災にもあうという、なんとういうのでしょうか、弱り目に祟り目のような日本でした。空襲の恐ろしさに加え、巨大地、津波の襲来ですから・・・・。
偶然とはいえ、貴重な軍需工場が地震で壊滅的打撃を受けたことで、戦争継続に影響を与えましたので、終戦が早まった可能性もあるのかもしれません。
終戦直後の昭和南海地震は、せっかく戦争で生き延びて復興に向けてこれからという時でしたので、やりきれない思いです。
最近また関東地方を中心に地震が多いようです。日頃の蓄えと防災の備えは万全にしておきましょう。
【12月14日】女子高生の噂がパニックを引き起こした。豊川信用金庫事件
警察が信用毀損業務妨害として捜査を行った結果、女子高生の雑談をきっかけとした自然発生的な流言が原因であることが判明しました。
デマがパニックを引き起こすまでの詳細な過程が解明された珍しい事例であるため、心理学や社会学の教材になることも多いのでご存知の方も多いと思います。
ことの経緯は、女子高生たちの会話でした。
●1973年12月8日(土)、下校中の飯田線車内で、豊川信用金庫に就職が決まった女子高校生Aを、友人B・Cが「信用金庫は危ないよ」とからかいます。
この発言は同信金の経営状態を指したものではなく、「信用金庫は強盗が入ることがあるので危険」の意味で、それすら冗談でしたがAは真に受けます。その夜、親戚のDに「信用金庫は危ないの?」と尋ねます。
●言われた親戚Dは、その信用金庫を豊川信金だと判断して(Aが就職するから)、同信金本店の近くに住む親戚Eに「豊川信金は危ないのか?」と電話で問い合わせしました。
●9日(日) 親戚Eは美容院のFに、「豊川信金は危ないらしい」と話しました。
●10日(月) 美容院のFは、親戚Gにこの話をした際、居合わせたクリーニング業Hの耳に入り、彼の妻Iにも伝わります。
●11日(火) 小坂井町の主婦らの間で豊川信金の噂が話題となり、通りがかりの住民の耳にも入る。この頃、噂は「豊川信金は危ない」と断定調になります。
●12日(水) 町の至るところで、豊川信金の噂の話題が持ちきりとなります。
●13日(木)、クリーニング業のHの店で電話を借りたJが「豊川信金から120万円おろせ」と電話の相手に指示をしました。Jは噂を全く知らず、ただ仕事の支払いで金を下ろす指示をしただけだっでしたが、これを聞いた妻Iは「同信金が倒産するので預金をおろそうとしている」と勘違いし、慌てて同信金から180万円をおろします。
●その後、H・Iは知人にこの話を喧伝、これを聞いたアマチュア無線愛好家が、無線を用いて噂を広範囲に広めます。
この後、同信金窓口に殺到した預金者59人により約5000万円が引き出されることになります。当時はATMなんでありませんから、銀行側も何が起きているのかわかりません。押し寄せる預金者たちとの間でパニックになります。
同信金小坂井支店に客を運んだタクシー運転手の証言によると、
昼頃に乗せた客は「同信金が危ないらしい」、
14:30の客は「危ない」、
16:30頃の客は「潰れる」、
夜の客は「明日はもうあそこのシャッターは上がるまい」
と時間が経つにつれて噂は誇張されていきます。
●14日(金) 事態の収拾のため、同信金が出した声明が曲解され、パニックに拍車が掛かる。その後、「職員の使い込みが原因」、「理事長が自殺」という二次デマが発生し、事態は深刻化します。
信金側の依頼を受け、マスコミ各社は14日の夕方から15日朝にかけて、デマであることを報道し騒動の沈静化を図ることになります。
●15日(土) 大蔵省東海財務局長と日本銀行名古屋支店長が連名で同信金の経営保障をすると発表。自殺したと噂された理事長自らが窓口対応に立ったことも奏功し、事態は沈静化に向かいます。
●16日(日) 警察がデマの伝播ルートを解明し、発表し、事態は沈静化しました。
わずか一週間の出来事でしたが、この時に動いた金額は26億円。
事件が発生した1973年当時は、10月にトイレットペーパー騒動が発生したばかりで、デマが流れやすい下地があったことも原因にあげられています。
さらにはこの事件の7年前に隣の豊橋市の金融機関が倒産するという事件があり、出資者の手元に出資金がほとんど戻ってこないという大きな被害を与えていました。
このクリーニング業のHもこの7年前の倒産被害者であったため、善意で周囲の人間にデマを広めてしまったことも原因でした。
こうした背景をもつHの目の前で、Jが大金をおろすよう妻に指示したため、デマがリアリティを獲得し、パニックの引き金となります。
これほどまでに経緯が分かる事例も珍しいですよね。この事件は、小説にもなりました。
清水一行の短編小説「銀行取付」という小説で、「ケチなワンマン理事長が宣伝費をかけずに知名度を上げるため、自行の信用不安情報を流布させた上で日銀の担当者に健全経営ぶりを喧伝させる」という内容になっています。
社会的不安がベースにあって、そこに、ちょっとしたリアリティを与えるとパニックの引き金となる良い事例です。地震や天変地異、社会情勢の不安など、今後も起きないとは限りませんし、不安を与えるような噂話には注意したいものですね。
ちなみにこの騒動の最中に何食わぬ顔で冷静に預金にきた人もいたそうです。それは、2年ほど前にペイオフ制度ができて、預金が保護されることを知っている人でした。
「何焦ってんだこいつら?」という感じなのでしょうね(笑)。正しい情報を持っていることはデマに流されない強みになります。
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【12月13日】今日は「B」の日。ビタミンと美容
本日12月13日の記念日は「 ビタミンの日」と「美容室の日」になっています。
美容室の日は、12月には美容室に多くの客が訪れることと、13日は「13」をくっつけるとBeauty[美]の頭文字「B」になることから制定されました。
この「B」の頭文字ですが、もうひとつの記念日「ビタミン」の「B」とも合いますね。
このビタミンの日は1913年の12月13日に、鈴木梅太郎が、米ぬかから抽出した脚気を予防する成分に「オリザニン」と命名したことを東京化学会で発表したことを記念して『ビタミンの日』制定委員会が2000年9月に制定しました。
このオリザニンは、1年後に発見されたビタミンB1と同じ物質であることが判明しているそうです。
ビタミンが発見されるまでは、脚気に悩まされる日本人は多かったと言われています。
この脚気に関しては、日清戦争などで死傷する兵士の数より、病気や脚気で亡くなる兵士の数の方が多かったとか、陸軍と海軍の食生活の違いが脚気の発病の違いとなって出てきたこと、森鴎外が猛烈に鈴木梅太郎を批判していたことなど話題に事欠きませんね。
さて、このビタミンと美容も大いに関係しています。特に美肌には良い成分があるので要チェックですよね。
■ビタミンA
レバーやほうれん草に多く含まれていて、皮膚や粘膜を丈夫にしてくれる働きがあり免疫力や抵抗力もアップしてくれます。ニキビの悪化や細菌による感染を防いでくれるので美肌を保つのに必須の成分ですね。
■ビタミンB1
豚肉や玄米に多く含まれていて、精神を安定させ、ストレスを溜めない為に必要な成分。ストレスは美肌の大敵なのでしっかり摂りたいビタミンですね。
■ビタミンB2
水溶性ビタミンのひとつ。脂質と糖質を分解して体内でうまくエネルギーとして使える状態にしてくれます。細胞の再生や粘膜を丈夫にしてくれ免疫力もアップさせてくれる、また、脂肪の蓄積を防ぐ効果もあります。まさに美容ビタミンと呼ばれるほどの効果を持っていますね。牛乳や納豆に多く含まれています。
■ビタミンC
アセロラやいちごに多く含まれていて、肌の弾力を担うコラーゲンを作るのに必要不可欠な存在です。また、紫外線や刺激によるシミの元になるメラニンの生成を防ぐ働きもあるので、白くてハリのある肌を目指す人には特におすすめです。
■ビタミンE
魚の「あゆ」や「はまち」、アーモンドに多く含まれていて、お肌の酸化(サビつき)を戻してくれる作用があります。つまりアンチエイジングに必要なビタミンと言えますね。血行も良くしてくれ、ビタミンCと一緒に摂ると相乗効果があります。
■ビタミンP
ミカンやレモンに多く含まれていて、ビタミンCの吸収を助けてくれるので、間接的にコラーゲンの生成に役立っています。毛細血管も丈夫にしてくれますので、隅々まで血液も行き届き美肌に一役かってくれるビタミンです。
ビタミンといってもその種類も豊富で効果も様々なものがあるんですね。ビタミンと美容は多いに関係があるので、同じ日に記念日になったことは偶然とはいえ、面白いものです。
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→【7月9日】森鴎外と脚気論争。麦飯か白飯か。
→【7月25日】日清戦争勃発
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【12月11日】「胃腸の日」お腹は大切に。
本日12月11日は「胃腸の日」です。
胃に(12)良い(11)という語呂合わせで、日本OTC医薬品協会が定めました。年末年始の忘年会、新年会で外食・飲酒が増える時期で胃腸に負担をかける前のちょうどいいタイミングの日だと思います。この日は、胃腸をいたわる日にしましょうか。
胃腸はデリケートな器官です。精神的・肉体的なストレスがかかると、「胃痛」や「胃もたれ」「膨満感」、時には「激痛」や「嘔吐」など激しい症状が引き起こされることがあります。
この原因ですが、強力な消化力を持つ胃液が、ストレスで弱った胃壁を侵すからと言われています。
管理人も長いこと胃痛に悩まされていましたが、ピロリ菌の除菌治療を受けて改善しました。食が進むので体重が増加したくらいです。
ピロリ菌は、胃の粘膜に生息しているらせん形をした悪い菌で、主に胃や十二指腸などの病気の原因になります。
子供の頃に感染することが多く、一度感染すると除菌しない限り胃の中に棲み続けてしまうそうです。
大人になってから感染すると激しい胃の症状をみることがあります。
ただ、ピロリ菌だけが胃痛の原因ではありません。暴飲・暴食・喫煙、過度のストレスが引き金となって胃、十二指腸をつかさどっている自律神経のバランスが崩れ、粘膜の血流の低下や胃酸が過剰に分泌されて、胃を破壊し潰瘍になりやすくなると考えられています。
ピロリ菌に感染していない、あるいは除菌したからといって、安心してはいけませんね。
でも人によっては劇的に改善することもありますので、お悩みの方は是非、一度検査をされることをオススメします。
→ピロリ菌の診断・治療ができる施設はこちらで調べることができます。
これからの季節、胃は大切にいたわりましょう。
自分で検査もできるキットもあるんですね。
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郵送で検査もできるそうです。
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【12月10日】坂本龍馬暗殺!
本日12月10日は、坂本龍馬(1836年1月3日〜1867年12月10日)が暗殺された日です。坂本龍馬は、土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活躍、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えました。大きな使命を終えた大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋にて中岡慎太郎と共に暗殺されました。享年31歳の若さでした。
龍馬暗殺の件はこちらに詳しく解説されています。 →近江屋事件(Wikipedia)
さて、気になる犯人ですが、様々な説があります。
新選組犯行説
事件当初は、いくつもの証言や物証もあり、新選組のしわざであると推定されていました。3日後に暗殺された伊東甲子太郎の同志(御陵衛士)らの証言から新選組の原田左之助によるものと推定されましたが不明です。後に幕府から取調べを受けた新選組局長の近藤勇は関与を否定しています。
現場に刀の鞘と下駄が残されていましたが、これは逆に新選組に嫌疑がかかるように仕組まれた罠だろうという見方がされています。
京都見廻組説
当時の見廻組隊士だった今井信郎が近江屋事件について取調べを受けた際に両名の暗殺に関与したと自供しました。今井は明治後期以降にも証言を行った他、大正時代には同じく元見廻組隊士の渡辺篤が龍馬ら暗殺をしたとの書置きをしていています。
しかし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)があります。
このため、証言が色々と食い違い、今井は実行犯でないことが分かり、西郷隆盛によって釈放されています。
このことから、見廻組を動かした黒幕は、トップの会津藩が犯人なのでしょうが、実は薩摩藩の西郷隆盛ではないかという説まで出てきました。
土佐藩佐幕派説
近年では、大政奉還当時の土佐藩は討幕派というよりも公武合体に執着しており、薩摩と長州に深い関係のある龍馬と中岡慎太郎は郷士でもあり、土佐藩上層部の佐幕派には邪魔で会津藩などと連携して二人を暗殺したという説がでています。
近江屋事件は土佐藩前の近江屋で起こり、現在、残っている近江屋事件の内容は、ほとんど土佐藩関係だけで、近江屋の主人などの同時代の資料もない(近江屋の主人の話などは明治末の言い伝え的なもの)ので、明治維新後に、土佐藩は龍馬と中岡慎太郎の死を、どのようにでも脚色できたという問題があること。
紀州藩士報復説
海援隊と紀州藩の間で起きた事件で、海援隊側の勝利に終わった訴訟「いろは丸事件」に対する、紀州藩士の恨みによる犯行であるとする説です。この事件が解決して8日後に龍馬が暗殺されたことから当時から海援隊隊士の陸奥宗光らが疑っていました。そのため、紀州藩公用人の三浦休太郎が海援隊隊士らに襲撃される報復事件(天満屋事件)まで発生しています。
薩摩藩陰謀説
西郷隆盛、大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする説です。これは小説としては大変面白いのですが現在では根拠が薄いとされています。
外国陰謀説
武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙ったトーマス・ブレーク・グラバー、ハリー・パークス、アーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説です。いわゆる「フリーメイソン陰謀論」に属する話です。薩長が同盟し幕府に対して兵を挙げれば日本に内戦が起き、イギリスは武器がたくさん売れて儲かると思ったのでしょうか。
うーん、こうしてみると四方八方から恨まれていますね。
大きな改革の時は、保守的な体制から恨まれるのはもちろんのこと、新しい利権をめぐっての争いにも巻き込まれることになりますので、まさに坂本龍馬は両方から恨まれてしまうのも無理はないと思います。
現在では、実行犯は「京都見廻組」説で落ち着いている感じですが、黒幕は未だ闇の中という感じでしょうか。
坂本龍馬と中岡慎太郎は、大政奉還後の新政府の構想を話し合っていたと言われます。坂本龍馬が生きていたら、どうしていたでしょう。明治政府の役人にはならないで、商人魂を発揮して新しいことをチャレンジし続けたかもしれませんね。
京都の近江屋事件後は今は見る影もありません。コンビニのサークルKは今は閉店しているそうです。
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【12月9日】夏目漱石の命日
本日12月9日は、夏目漱石の命日です。1867年2月9日〜1916年12月9日)
夏目漱石は、日本の代表的な小説家であり、評論家、英文学者でもありました。
日本人なら誰でも知っているくらい有名な作家です。
帝国大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学します。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などの名作を次々と世に出していきます。
その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。晩年は胃潰瘍に悩まされつつ、49歳の若さで亡くなりました。
夏目漱石の主な作品(中編・長編小説)
・吾輩は猫である(1905年)〜漱石のデビュー作
・坊っちゃん(1906年)〜漱石の小説の中で最も多くの人に愛読されている作品
・草枕(1906年)〜熊本県玉名市小天温泉が舞台
・二百十日(1906年)〜阿蘇山に登る、2人の青年の会話体で終始する小説
・野分(1907年)〜漱石が朝日新聞に入る間際の時の作品
・虞美人草(1907年)〜職業作家としてのデビュー作。映画化にもなった
・坑夫(1908年)〜漱石作品では異色の実在の人物の経験を素材とした作品
・三四郎(1908年)〜TVドラマや映画にもなった有名作
・それから(1909年)〜松田優作主演の映画で有名
・門(1910年)〜『三四郎』『それから』に続く、前期三部作最後の作品。
・彼岸過迄(1912年)〜自意識の強い男と、天真な従妹との恋愛を描いた作品
・行人(1912年)〜途中で胃潰瘍で中断された作品
・こゝろ(1914年)〜「先生」からの遺書を通して、明治高等遊民の利己を書く
・道草(1915年)〜執筆時の生活をもとにした漱石自身の自伝といわれる作品
・明暗(1916年)〜漱石、最後の作品
などがありますが、管理人はこれ以外の短篇小説の「夢十夜」(1908年)が大好きです。
この時代の人々は結核や流行病で若くして亡くなる方が多いです。夏目漱石ももう少し生きて世に名作を出して欲しかったと思います。
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【12月8日】真珠湾攻撃と日米英開戦!
この日から日本とアメリカは4年にも渡る長い長い悲惨な戦争を繰り広げていくことになります。
「真珠湾攻撃」は宣戦布告と同時にアメリカの前線基地であるハワイの太平洋艦隊を叩き、一挙に戦局を日本に優位に持って行こうとする山本五十六長官の発案で実行されました。
留学や駐在でアメリカの工業力などをよく知っている山本からすれば、短期決戦でしか日本が勝つ見込みがないことを知っていたからです。
真珠湾攻撃は、日本の虎の子である空母6隻、その他の艦船14隻、航空機350機という当時の主力の大半をつぎ込みます。日付変更線を越えハワイへ向かう途中の連合艦隊へ入ってきた有名な開戦の暗号電文 ”ニイタカヤマノボレ1208”は12月8日未明に攻撃を行うことを意味しています。
攻撃の結果は、戦艦5、駆逐艦2、標的艦1が沈没、戦艦3、巡洋艦3が中破、航空機188機破壊、155機損傷という、当の日本海軍でさえもが予想もしなかった大成功でありましたが、山本長官の意図していた戦意をくじく心理的効果が大失敗に終わりました。それは、結果的に日本の外交官の致命的なミスで攻撃開始30分前にアメリカに渡すはずが、攻撃開始後の1時間後になるという失態を犯し、結果的にアメリカ国民を激怒させることになります。
この騙し討ちに対し、戦争を望んでいなかった中立派まで”リメンバー・パールハーバー”(真珠湾を忘れるな!)の標語のもとに一致団結させる逆効果をもたらし、和平交渉など問題外、徹底的に戦うべしというルーズベルト大統領の思惑通りに展開していきます。これは、実はルーズベルトたちは日本の攻撃を知っていてあえて日本に攻撃させたという噂もありますね。
日本側の暗号がすでに解読済みということは検証されており、アメリカ即ち時の大統領ルーズベルトが真珠湾攻撃を前もって知っていたということは、信憑性が高いと思われます。
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→真珠湾攻撃陰謀説
この外交官の大失態のせいで、日本は汚名をかぶることになりますが、この外交官は処罰されるどころか責任をとらされることもなく、戦後は出世してしまいます。この時にこの外交官をしっかりと処分していれば「日本人は卑怯な民族」という汚名は雪がれていたかもしれないかと思うと悔しくてなりません。
日本の官僚の無責任さはこの時から始まっていたのでしょうか。
【12月7日】クリスマスツリーの日
本日12月7日は「クリスマスツリーの日」となっています。明治19年(1886年)年のこの日、横浜で外国人船員のために日本初のクリスマスツリーが飾られました。
クリスマスツリーの原型は、古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた"もみの木"です。冬でも葉を枯らさずにいる"もみの木"は生命の象徴とされていました。
こうした「祭りごとを行う際に"もみの木"を飾る」という行為がドイツに伝わり、キリスト教の普及と共に混ざりました。そして、1419年にドイツのフライブルクで、パン職人の信心会が聖霊救貧院にツリーを飾ったことがクリスマスツリーの最初と言われています。
このようにドイツから世界へと伝わり、現在では、キリスト教徒が少ない日本のような国でも、この風習は根付いています。日本は綺麗なものを飾り、いつもより豪華な食事が出来るだけで受け入れてしまいますよね(笑)。
この"もみの木"は現在では様々な木が使われるようになりましたが、主に針葉樹の幼木が多いようで、クリスマスツリー専用に商業目的で生産されています。その数、生産数の多いオレゴン州だけでも700万本超えだそうで。環境破壊にならないように農地で生産されていますが、問題なのは、クリスマスが終わった後のツリーのゴミだそうで。このためニューヨーク州を始めとした都市部や住宅地では、2000年代以降、リユース(鉢植えで使用後に農場へ戻す)やマテリアルリサイクルを行う取り組みが見られるそうです。もったいないですものね。
最近は、そういった環境問題も考えてなのか、プラスチック製のクリスマスツリーも存在しており、常緑樹に似せられた緑色のもの(グリーンツリー)が一般的で、更にはオーナメントもツリーとセットにして一緒に販売されていることが多いです。
クリスマスツリーを綺麗に飾るオーナメントにも意味があるそうで、 ツリーの先端には、ツリートップ(星、天使)と呼ばれるオーナメントをつけます。これは、キリストの降誕を知らせたベツレヘムの星にちなみ、多くは星が飾られますが、イギリスなどではクリスマス・エンジェルという天使が飾られることも。
ちなみにこれをつける役目はその家のお父さんでなければならないという地域もあるそうで。
リンゴも大事な要素です。これはアダムとイヴが食べた知恵の樹の実を象徴したものですが、現代ではオーナメントボールと呼ばれる飾り(金属光沢のあるメッキボールやガラス製のグラスボール)になっていることも多いとのこと。その他には、杖の形をした飴のキャンディケイン、 箱入りのポップコーン、クッキー、ビスケット、ドーナツなど、実物あるいは実物を模したものを糸で吊り下げて飾ります。また雪をイメージした綿(スノーブランケット)や雪の結晶の形を模したプラスチック製の装飾(スノーフレーク)などもムードを盛り上げます。
最後は、モール、ガーランド、リボン、ベルと、電飾です。金属光沢のある飾りをツリーに直接かけて飾り、リボンやベルなどは糸で吊り下げて飾っていきます。カラフルな電飾を巻きつけてコンセントに差し込んだら完成です。ワクワクしてきますね。
日本の一部の商店街や商業施設などでは、七夕の笹飾りに似て、短冊または他の形状の紙の小片に個人的な願い事を書いてクリスマスツリーに飾り付ける事が行われていますが、これは日本だけのようです(笑)。
【12月6日】音の日。エジソンとベルリナーの蓄音機開発競争
本日12月6日は「音の日」です。トーマス・エジソンが1877年に世界で初めて蓄音機「フォノグラフ」を発明した日で、日本オーディオ協会が日本音楽スタジオ協会などと協調して定めました。
ちなみに1877年の7月31日は「蓄音機の日」とされていますが(【7月31日】今日は蓄音機の日)、この日が特許取得の日ですね。
12月6日は発明した日ですが、人前で実験に成功した日ということでしょうか。Wikipediaでは、この蓄音機で初めて人の声を録音した日とあります。
エジソンの有名な三大発明として蓄音機、映写機、電球がありますが、この蓄音機に関しては、エミール・ベルリナーとの開発競争が有名です。
この前に「電話機」で、グラハム・ベルとの特許争いに敗れたエジソンでしたが、今度は「蓄音機」で反撃を試みます。ベルリナーは実はベルの会社で働いており、電話機でもこのベルリナーの改良案を使い、優位にたってます。そして、蓄音機開発においてもエジソンの前に立ちはだかります。この分野においては、生涯にわたってエジソンの最大のライバルだった訳ですね。
エジソンは1877年には最初の錫箔円筒式蓄音機「フォノグラフ」を完成させ、マスコミに発表していまする。蓄音機は「話す機械」として喧伝され、大いに評判を呼びましたが、評判のわりに性能が低く、実用化にはほど遠いものでした。
その点、ベルリナーをはじめとするベルの開発チームのメンバーは、蓄音機の実用化に向け、録音と再生の針を別にしたり、保存の効かない 錫箔をワックス塗りに変えたり、再生にゴム管を使い音声が明瞭に聞こえるようにしたり、といった様々な改良を加え、完全に実用に徹した「グラフォフォン」を誕生させます。用途の定まらないフォノグラフに対し、グラフォフォンは実用品として生まれ変わったのでした。
外見の違いはフォノグラフの円筒式に対してグラフォフォンは円盤式になっています。
エミール・ベルリナーはベル社を去り、その後も開発を続け、独自の蓄音機開発の道に進みます。
彼は音の振動を独自の技術でディスク(円盤)に刻む方法を編み出し、更には原盤から、安価に再生専用の円盤を作る方式も考えます。
このプレスされたレコード盤をかける再生専用蓄音機は、30年近くエジソンの円筒式蓄音機とこの分野における覇を争うことになりますが、最終的にはベルリナーの方式が勝利をおさめました。
最初の発明はエジソンの手に渡りましたが、その後の実用化ではベルリナー方式の勝利ということになりました。
ベルリナーが作ったグラモフォン社はいくつかの変遷を経て、現在、世界的な音楽企業・ビクターになっています。
この有名なビクターのロゴはエジソンとは無関係だったのですね。
<関連記事>→【7月31日】今日は蓄音機の日
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【12月5日】消息機はどこへ?バミューダトライアングルの日
本日12月5日はなにやら怪しい日となっています。その名も「バミューダトライアングルの日」。
フロリダ半島の先端と、大西洋にあるプエルトリコ、バミューダ諸島を結んだ三角形の海域で、昔から船や飛行機、もしくは、その乗務員のみが消えてしまうという伝説があることで有名な地域です。
この伝説に基づいて、多くのフィクション小説、映画、漫画などが製作されています。
12月5日の午後、アメリカ海軍・第19飛行小隊、通称「フライト19」のアベンジャー雷撃機(右画像)、5機が訓練のために、フロリダのフォート・ローダーデール海軍基地を飛び発ちました。指揮官は、テイラー中尉。
その日は、快晴でした。しかし帰還予定時間を少し過ぎた頃、無線が入ります。「タワーに告ぐ!!こちら指令機。緊急事態発生。我々はコースをはずれたらしい。陸地が全く見えない…」
現在位置を訊く管制官にテイラー中尉は答えます。「それが分からない。どこを飛んでいるのかさっぱり分からない。」
とにかく西へ向かえと指示するタワーに、テイラー中尉の声が返ってきました。
「どっちが西か分からない。…奇妙だ。…何もかもおかしい。方向がつかめないし、海の様子もいつもと違って妙に白い。」
この無線通信を最後に、テイラー中尉以下編隊の5機は完全に消息を絶ってしまいます。
そこで捜索のために、乗員13名を乗せたマーチン・マリナー飛行艇が、至急、現地へ向かいました。
ところが、こちらも離陸数分後に無線連絡をしたきりで、同様に消息を絶ってしまいました。
不思議なことに、海軍が船で海上を捜索しても、飛行機の破片や、残骸などの浮遊物が、何も見つからないことから奇怪な事件として有名になります。
その後、今までの海難事故も含めて、様々な消失事件が発生します。その数、なんと50件以上・・・。
ざっと上げただけでも海難事故は、
●1880年1月イギリス海軍の船アトランタ号。乗員300人と共にバミューダ島近くの海で行方不明。
●1920年4月フランスの客船オブライエン号。乗員150人と共にフロリダ沖で行方不明。
●1926年3月アメリカの貨物船サダフコ号。乗員26人。
●1950年6月スペインの貨物船サンドラ号。乗員85人と共にハイチ近くで行方不明。
●1966年12月メキシコの輸送船サザン・シティ号。乗員16人と共にカリブ海のハイチ近くで行方不明。
●1970年 ミルトン・イアリトリード号(フランス貨物船)
●1973年 アニタ号(ドイツ貨物船)
航空機事故は、
●1947年、アメリカ陸軍C54輸送機がキューバ上空を過ぎた後、行方不明。
●1947年、アメリカ空軍C46輸送機が32人の乗員を乗せてバハマ上空で行方不明。
後日、C46輸送機の機体がジャマイカのブルー山脈で発見されたが、機体だけであり、乗員32人の死体は一体も発見されなかった。
●1947年にはスーパーフォートレス機
●1950年にグローブマスター機、
●1952年にスーパー・コンステレーション機、
●1954年ロッキード・コンステレーション機、
●1956年マーティン型水上艇
●1963年9月アメリカ空軍C133カーゴマスターが10人の乗員を乗せて大西洋のアゾレス諸島で行方不明。
とおびただしい数の消失事件です。
原因について様々な憶測が飛び交い、
●ここの海底に、UFOの基地があるのではないか。
●ブラックホールが存在し、その中に吸い込まれるのではないか。
●空間の歪みが起きている。それにより他の次元に迷い込んでしまうことも。
●気化した大量のメタン・ハイドレートによって、海中に引き込まれているのでは。
などと、オカルトマニアや都市伝説系の好きな方々を大いに盛り上げることになります。
最初の航空機消失事件であるアベンジャー機「フライト19」などは、スピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」のワンシーンでも使われるほどでした。
さて、これだけ世間を賑わした「バミューダ・トライアングル魔の三角海域」ですが、アリゾナ州立大学の図書館員である、ローレンス・D・クシュという人がこのバミューダ・トライアングルの謎を徹底的に調べます。
きっかけは、1970年代、バミューダ・トライアングルの伝説が盛り上がっていたころ、図書館にこの件について問い合わせが殺到したことによります。
興味を覚えたローレンス氏は自分で調べることにしたのです。
彼は50件以上の消失事件を調べ上げました。 しかし、調査の結果はガッカリの極みでした・・・・。
事件の1/4はそもそもその海域の事故ではなく、また実際には悪天候による事故がほとんどだったそうです。
この海域は、また非常に激しい気象で知られ、多くのハリケーンを産みだす場所でもあります。この海域のバミューダで発生するハリケーンは海が荒 れた時には波の高さは15m、6階建てのビルと同じ高さになることも。風速も80mに及ぶこともあり、これは日本の「猛烈な台風」の風速が50m余りに較 べても、どれだけ荒い気象かが容易に想像できます。
科学的に分析していくと、局地的な天候の変化が激しく、わずか50mの範囲だけが嵐になったり、ほんの少し離れた場所では、全く天候が違ったりすることも。竜巻や雷雲もよく発生し、落雷も多いそうです。
発生する巨大波ですが、この波に乗り上げて叩きつけられると昔の船体だと、真っ二つに破壊され、SOSを出す間もなく沈没したのではないかと言われています。そういえば現在ではこの海域の消失事故は聞かれませんね。
これらの調査結果などにより、今まで謎とされていた事故は、そのほとんどが通常の海難事故か、尾ひれがついた誇張されたもの、そして全然違う海域で起きた事件であることなどがわかりつつあるそうです。
最初のアベンジャー機「フライト19」消失事件も、実際は急な悪天候が発生したにとに加えてテイラー中尉以下、パイロット達の訓練不足が重なったことで起きたものだと現在では考えられています。波高15m近い荒波の中、痕跡一つ残さず海底に沈んで行っても何の不思議もありませんでした。
なお、このエピソードの 紹介の際に語られることが多い「どっちが西かも分からない」「白い水に突入」などのセリフは、実際の通信記録には存在しないそうで・・。
話を面白くするために尾ひれがついてしまったのですかね。
さらに救難に向かったマリナー飛行艇ですが、静電気による引火・爆発説が有力です。この飛行艇は燃料漏れなどを頻繁に起こす欠陥があり、「空飛ぶガスタンク」の悪名をとっていました。
実際、救助に向かったこのマリナー飛行艇に緑色の不思議な光がまとわりついている のを目撃した地元住民がおり、いわゆる「セントエルモの灯」(悪天候時、船舶や飛行機等に発生する静電気によるコロナ放電)がガソリンに引火したと言う説が有力です。
うーん、偶然が重なったのでしょうか。ちょっとがっかりですね。
でも、100件のうち、99件が解明できても1件でも未解決な事件があれば、それは本物であるということも否定できませんから、謎は謎として残しておくのも夢があっていいかもしれません。
ローレンス・D・クシュ氏の渾身の一冊「魔の三角海域」は1970年代に角川文庫から発刊されていましたが、現在は絶版となっております。
Amazonでも扱っていないプレミアムがあると思われる本ですので、古本屋で見つけたら是非、購入しておくことをオススメします。
テーマ : 歴史&スピリチュアル・ミステリー
ジャンル : 謎
【12月4日】北里柴三郎と血清治療
この「血清」なのですが、血液をずっとほっておくと血が固まってきます。これは血餅(けっぺい)と呼ばれるものですが、この時に分離された液体部分を言います。この液体を使用して治療に応用するのが血清治療なのですが、この治療方法につながる「破傷風」と「ジフテリア」の抗体を発見したのがこの二人でした。
→右図分離した血餅と血清(オレンジ色の部分)
ベーリングは、自分だけの功績ではなく、北里あっての結果であることを述べたそうです。
北里柴三郎が受賞できなかったのは、ジフテリアについてのデータを単独名の論文で発表したこと、ノーベル賞委員会や選考に当たったカロリンスカ研究所が血清療法のアイディアはベーリングの創出で北里は実験事実を提供しただけとみなしたこと、当時は、共同授賞の考え方がまだなかったことが要因としてあげられています。
惜しくもノーベル賞を逃した北里柴三郎ですが、この論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けることになります。
しかし、国費留学の目的は、日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして柴三郎はこれらを固辞。日本の医療のために力を尽くすことになります。
その柴三郎の決意に反して、帰国した柴三郎を待ち受けていたのは東大医学部からの攻撃でした。「脚気の原因は細菌」とする母校の東大教授・緒方正規の説に対し「脚気菌ではない」と批判をしていため、「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまうことになるのです。
日本の医学界ではよくあることなのですが、活動ができなくなることを憂慮した福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となりました。
その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組むことになります。
1894年(明治27年)にはペスト菌を発見するという業績をあげました。
1914年には東大、政府と対立し、新たに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組むことになります。
北里柴三郎は「日本の細菌学の父」として多大な功績を残してくれました。
関連記事
→【7月9日】森鴎外と脚気論争。麦飯か白飯か。
→【3月24日】世界結核デー。結核の恐さ
【12月3日】カレンダーの日
明治5年の12月3日の旧暦が、太陽暦を採用することで、明治6年1月1日なったことから、この12月3日をカレンダーの日としたそうです。
それまで使用していた旧暦とは、日本独自の太陰太陽暦で、1685年から貞享暦(1685-1755)、宝暦暦(1755-1798)、寛政暦(1798-1844)、天保暦(1844-1872)の使用が続けられ、明治時代の1873年にグレゴリオ暦が導入されたことで、その歴史に幕を閉じました。
太陰太陽暦とは約1ヶ月間のずれがある新暦、グレゴリオ暦ですが、これは現行の太陽暦として世界各国で用いられています。要は世界標準に合わせましょうということですね。400年間における1年の平均日数を、365日+97/400 = 365.2425日、とすることがグレゴリオ暦です。
暦の種類は古来、「太陽を基準」とするのか、「月の満ち欠けを基準」とするのかで大きく分かれていました。エジプトやローマの方は太陽を中心に、そして中国などは月(太陰)を中心に暦を考えたのです。太陰太陽暦とは両方の運行を考慮した暦です。
太陽暦とは?
太陽の運行を基にした暦です。ですので、日付と季節が基本的には狂いませんし、閏年が入る年も4年に1日だけの調整ですみます。ですので、例えば毎年4月7日には桜が咲くという感じで覚えることができます。農耕などには便利な暦ですね。
エジプトでは歴史が始まって以来、ずっと使われてきました。1582年にローマ教皇グレゴリウス13世によって今までの暦(ユリウス暦)を補正したグレゴリオ暦が世界中に普及しました。
メリットはシンプルで分かりやすいこと。デメリットは月の動きは完全無視といったところでしょうか。

太陰暦とは?
これに対して月の満ち欠けを基準した暦が太陰暦です。月が出ない夜(新月)を1日頃として、満月になる約29.53日を一月としたものです。昔は照明がない時代でしたから月は大事だったと思います。
月の満ち欠けが基準なので、祭り事などの夜の行事が立てやすいというメリットがありますね。陰暦では、盆踊りがほぼ満月になるようにしてあります。また潮の満ち欠けなども日付で状態を把握することができるので、漁業が身近な国は便利な暦です。
ただ、一年が354日ですので、毎年約11日ずつ、季節はずれていきますので、調整するのが大変。現在、純粋に太陰暦と言われるのはイスラム暦(ヒジュラ暦)くらいだそうで、少数派といえるでしょう。

太陰太陽暦とは?
基本は太陰暦なのですが、太陽の運行も考慮して、約3年に一回、閏月というものを入れて13ヶ月間、約384日とすることで、季節のズレを調整した暦です。
とはいえ、どのように調整するかは各国によって違いがあります。
日本では、中国の暦を使っていましたが800年間もの間でかなりの誤差が生じ、渋川春海という人が日本の経度差を考慮した日本初の和暦、貞享暦を開発します。
この方、映画「天地明察」でも有名になりましたね。
その後数回の修正を繰り返し、1842年の天保13年には西洋天文学の成果も取り入れて、世界で最も正確な太陰太陽暦(天保暦)となりました。

貞享暦。1729(享保14)年版。
渋川春海(安井算哲)の話は、映画にもなりましたね。
通常の暦の日付に加え、約15日づつの二十四節気、約5日ずつの七十ニ候があり、これが太陽暦として機能するので、太陽暦と太陰暦の両方の良さを加えたメリットがあります。
これですと、毎年◯◯の頃に種まき、◯◯の頃に収穫という農耕にも便利になりますし、新月(1日)と満月(15日)の頃は大潮などが分かるため漁業にも便利です。
現代では、一年が約354日の年と、約384日の年があるので、年間の労働時間や休日、月給の管理が面倒というデメリットがありますね。まあ、これは二十四節気を基準にすれば、問題がなくなりますが、年間で考えるとやや難しいかな。
ちなみに旧暦だと今日は10月21日。う〜ん、なんかピンときませんが、来週の7日が二十四節気だと「大雪」なので、それならピンと来ます。
明治政府が新暦を導入
さて、世界を見てもこんな正確で素晴らしい暦があったにもかかわらず、時の明治政府は、グローバル化に合わせて世界共通で行きましょうと太陽暦(グレゴリオ暦)に変更することを決定します。しかも急な導入で相当の反対と混乱が生じたようです。
宣告された翌月の12月は、はわずか2日だけで、その翌日には1月1日という、とんでもないことに^^;
なんでも旧暦のままだと閏月があって、月給制にした明治政府は、この年、13ヶ月払わないといけないので、急いで新暦を導入して11ヶ月分で済ましちゃえという財政に困っていた明治政府の思惑があったようで、ひどい話ですね^^;
日本の祭り事や、自然の動きには、太陰太陽暦の方があっているらしいのですが。

日本史を調べる時は旧暦と新暦の表記に注意
日本の歴史を調べていて、よく混乱するのが、旧暦と太陽暦なんです。
例えば年末によくTVドラマでやる「赤穂浪士の討ち入り」なんかですと、旧暦ですと12月14日ですが、西暦だと年明けの1月30日になります。
よく元禄15年(1702年)12月14日とか、1702年(元禄15年)1月30日という表記がありますが、これだと、1702年の12月14日とか、元禄15年の1月30日だと勘違いしがちです。
正確には元禄15年12月14日(1702年1月30日)、もしくは1702年1月30日(元禄15年12月14日)と表記するのが正しい書き方となります。^^;
年号だけですと、月日の表記が旧暦なのか西暦なのかが不正確になるので、日本史を調べる時は表記には要注意ですね。
面白いのは、昔の暦なら月日でその時の状況が分かるのです。
例えば、有名な「本能寺の変」。明智光秀が織田信長に謀反を起こした事件ですが、西暦だと、1582年の6月21日ですが、旧暦だと天正10年6月2日未明になります。旧暦は月の満ち欠けに合わせているので、この日は新月。月が出ない日で、夜襲にはもってこいの晩なのです。この日を選んで夜襲をかけたことは想像に難くないですね。
旧暦だと色々なことがわかって面白いのですが。
【12月2日】沢村栄治。戦争によって潰された右腕
(三重県出身:1917年2月1日 - 1944年12月2日)
現在でも沢村栄治賞といってその年の先発投手で優秀な成績をおさめた投手に送られいるほど、伝説の名投手でした。
高校野球でも1試合23奪三振を記録するなど、その才能は秀でていましたが、高校中退で日米野球の全日本選抜チーに選ばれ、メジャーリーグ選抜チームを1失点9奪三振と抑えた快投をしています。
プロ入り後も史上初のノーヒット・ノーラン、巨人の初優勝の貢献、24勝、防御率0.81など、黎明期の日本のプロ野球を代表する快速球投手のしての名を馳せました。職
しかし、時代は戦争へと突入していきます。1938年から1940年の徴兵、手榴弾を投げさせられたことからの右肩の故障など、2度、3度の度重なる徴兵で身体はボロボロになっていき、かつての球速やコントロールは失わてしまいました。ついに1944年のシーズン前に巨人から解雇、現役引退となります。業野球通算63勝22敗、防御率1.74のわずか5年間の巨人選手でした。
それにして、戦時中も野球を行われていたことが驚きです。当時は「プロ野球」とは呼ばずに「職業野球」と呼ばれていたそうですが。
現役引退後ですが、1944年10月2日に3度目の徴兵で、陸軍伍長として乗船していた輸送船が屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ合衆国潜水艦シーデビルにより撃沈され、屋久島沖西方にて戦死しました。
享年27歳の若さでした。
戦争がなければ、プロ野球に残るであろう、多くの記録や好成績を残したことは間違いないと思われる沢村栄治投手ですが、その背番号「14」は、永久欠番として指定され、沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」が設立され、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られることとなります。
沢村栄治のその名は、東京ドームそばの「鎮魂の碑」に、石丸進一ら太平洋戦争で戦死したプロ野球選手とともに銘記されていまする。また、故郷に程近い伊勢市岩渕町一挙坊墓地に沢村の墓が建立されており、その墓石はボールを模した形で、前面に巨人の「G」、後面に沢村の背番号「14」が刻まれているとのことです。
【12月1日】鉄の記念日
本日12月1日は「鉄の記念日」です。
安政4年旧暦12月1日(1858年1月15日)、南部藩士・大島高任という方が、日本で初めて高炉による製鉄に成功したことを記念して日本鉄鋼連盟が1958年に制定しました。
鉄自体の歴史は古く、人類とは長い付き合いなのですが、商用高炉による製鉄に成功したのが割と近年なのですね。そういえば、南部藩っていえば南部鉄器が有名ですが、その関係もあるのでしょうか?
この大島 高任(おおしま たかとう、826年6月16日〜1901年3月29日)という方は明治時代の鉱山学者で、父の大島周意は藩医として南部藩に勤めていました。
明治維新の文明開化に合わせて、西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(現在の釜石)の地に西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功します。
これは、商用高炉としては日本初のことでした。
なお、日本における高炉による初出銑は鹿児島の集成館高炉によるもので安政元年(1854年)のことだそうです。
鉄の原料は鉄鉱石です。しかし、鉄鉱石だけでは鉄はつくれません。鉄鉱石を溶かして鉄分を取り出す高炉には、コークスや石灰石、石炭を一緒に入れる必要があります。
現在では、日本の製鉄は世界でもトップレベルで、「日本鉄鋼業のエネルギー効率が世界最高水準であること」も実証されたそうです。
→http://www.jisf.or.jp/business/ondanka/iken/teigen/iea.html
鉄は人類の文明、文化に欠かせない重要な資源です。
鉄と青銅の武器の差が国が滅びる原因にもなったり、歴史を大きく左右する重要な存在でもありました。
今や鉄のない暮らしなどはあり得ないですね。
これからも暮らしに欠かせない鉄ですが、日本の技術が世界の発展に役に立つのは嬉しいことですが、スパイなどや不当な方法で流出しないようにして欲しいものです。































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